2005年03月31日
ハーフパンツの欠点を指摘されては困るか
夕方、近所のしまむらに立ち寄った。
もうとっくに春物が出回っているはずなのに、「これぞハーフパンツ」というようなものは少なかったような気がする。
それはそうと、身長130センチ用のズボンには困ってしまった。
ポケットに、財布などを収納するための蛍光色の鎖が付いているのである。
半ズボン時代には、中学生がダブパンを脱色し、財布に鎖をつけてポケットの中に入れていた。
130センチと言えば、まだ幼児ではないか。
「ザ」に、「子育ての立場から子どもらしさの押し付けには強く反対します」との投稿があったが、子育ての立場なら年齢不相応の背伸びに強く反対すべきではないのか。
匿名の掲示板では、投稿者が何者であるか分からない。
教育現場では、体操着のハーフパンツ化に反対できる雰囲気がないようだが、「ザ」の投稿も私の半ズボン復活論を封殺することが目的のように思える。
子ども扱いからの脱出?
2000年から2001年にかけて、小中学校男子の体操着がハーフパンツ化された。半ズボンタイプとハーフパンツタイプのどちらがいいの?と本人たちに尋ねたら、「ハーフパンツ!」と抱き合っていた。
まるでベルリンの壁崩壊を喜ぶ東独市民のような感じであった。
古来、社会主義を含めたユートピア思想は、構成員に対してかなりの統制を科す。小学生にとって、半ズボンは重くのしかかる統制だったのか、子どもらしさを引き出されることは本意ではなかったのか、と考える。
もし一生同じ年齢でいられるならいくつでいたい?と聞かれたら、私は迷わず小学校6年生と答える。
しかし現実の小学校6年生は、早く子ども時代を脱して、恋愛が出来る季節に移行したいのだろうか。
私が理想化する小学生は、イメージでしか存在しないのだろうか。
2005年03月29日
過剰反応は子どもの可能性を摘み取る
この3月から、スカパーで「俺はあばれはっちゃく」の再放送が始まった。
毎回楽しみに見ているが、先日「子どもを狙った痴漢出没!」という物語が放映された。本放送は1979年3月のはずだ。
はっちゃくこと桜間長太郎の同級生の女の子のパンティーが盗まれたり、長太郎の姉貴がレイプに遭いそうになったりする。
それに対して、東野英心演じる父ちゃんは、「そいつはいけねえ。捕まえてもらわなくっちゃあ。」
長太郎の担任の先生も、「警察に任せておけばいいことだから、君たちは関わるな。」
今こういう事件が起きたらどうなるか。
スポーツ新聞は連日犯人像を憶測するだろうし、地域では子どもがいるいないに関わらず自警団が結成されるだろう。面白半分の模倣犯は、厳罰に処せられるだろう。実際に子どもをめぐる治安が悪化したとの確証もないままに。
今なら保護者や教員を恐怖のどん底に突き落とす問題を、この時代はホームドラマで軽く取り上げ、笑い話で済ませた。現在は機密文書のクラス名簿も、当時は児童名・保護者名・住所・電話番号がフルデータで載せられていた。雑誌の読者論壇も、投稿者の氏名や住所を細かく載せていた。投稿を読んで不快に思った者が予告なしに自宅を訪問する危険性があったにも拘らず。
我が家には、1985年に近所の小学校の運動会の様子を撮影した写真が残っている。男の子の白い短パンはもちろん、何かと槍玉に上がる女の子のブルマーも、時代の景色に溶け込んでいやらしさがない。
現代の小学生は不幸だ。
実在するのかどうかも分からない脅威の前に、「子どもを守る」要塞の中で純粋培養されている。
誰かがわが子をあばれはっちゃくに育てる決断をしなければならない。
2005年03月27日
みんな忘れてしまったのか
21世紀の空は灰色。
私たちが慣れ親しんだ文化とあまりにも違う。
まるでタイムマシンという工作船に乗せられて、見知らぬ時代に拉致されてきた気分だ。
ここでは、私たちの少年時代には、男の子なら皆穿いていた半ズボンが消えたことについて取り上げたい。ただし、
1.半ズボンに愛着があること。
2.半ズボンの復活を願っていること。
3.自分の子どもの有無は問題にしないこと。
4.少年ファッション論として半ズボンを語ること。
を前提にして、議論を進めたい。
半ズボンの印象を悪くする発言や、本ブログの趣旨とは接点のない発言、特定の投稿者に対する誹謗中傷を目的にした発言は、予告なしの削除もあり得るのでお含みおきを。