アリア・ディ・ティフル―Verita―
 act.9


 初老の店主がグラスを磨く音だけが、店内に漂っていた。
 
 低く、足元近くを照らす照明は、隣の人間と話す分には支障ないが、数席離れた相手を特定することは難しい、そんな独特のほの暗さを演出している。
 カウンターと数席のテーブル。酒精に溺れて馬鹿騒ぎする集団も居らず、ただ淡々と杯を重ねる客の姿が幾人。決して寂れているわけではなく、客がいないわけでもない。表通りにみられる喧騒とは無縁の、どの街にも当たり前に見られる、隠れた店、という風情だ。
 ここにやってくるのは、ただ静かに酒を飲む事を目的とした者から、密やかな商談をしようという脛に傷を持つ者。あるいは店の雰囲気を好んだ趣味人といった所か。
 いわゆる労働者階級の者には敷居が高い、そんな店だ。
 
 そのカウンター席に、一際異彩を放つ客がいる。
 
 数少ない客のほとんどが熟年から壮年層で埋められている中、その少女は悠然とグラスを傾けている。その外見から鑑みるに未だ「少女」と呼ぶのが相応しい年頃。それからは考えられない、一種の威厳や荘厳ささえ感じられる、自信に満ちた佇まいだ。
 
「――おかわり」
 
 高く澄んだ少女の声に、静かな口調。店主もまたそれをいぶかしむ事無く、無言で飲み干されたグラスを引き取る。
 しばし奏でられるシェイカーの振音。そして、紅玉を溶かしたような液体を満たし、再び少女の手元に返るグラス。
 甘い芳香を放つそれを、少女は美味しそうに一口含む。

……こつ、こつ、こつ。

 硬質な床を叩く足音。
 少女は振り返る事をしない。ただ、不機嫌な様子でグラスを置く。
 足音の主は口元だけを笑みの形に歪めると、その少女の隣に腰掛けた。
 
「同じものを」
 
 深い響きの男の声。
 店主は頷きを返すことも無く、再びシェイカーが振られる。
 血のように紅いカクテルが、ほの暗い照明の下グラスを満たす。
 
「……まだ、生きていたのですね? 壮健なようで残念です」
 
 高い声に嘲りを込めて、少女が言う。
 
「これはこれは手厳しい」
 
 くすくすと笑いながら、男はグラスを形のいい口に運ぶ。舌先が蕩けるほど甘く、刺激的なエキスが口腔に満ちる。
 
「わざわざ、この私一人を呼び出したのは……どういうつもりなのでしょうね?」
 
「ふふふ……いいじゃないですか。少しくらい一緒にお酒を飲みにきたとしても。
 ―――古い知り合いというのは年々減るものですからね」
 
「はっ―――言うではありませんか……若造が、知ったような口を」
 
 そう応える声は、明らかに年少の少女のもの。けれども声質は自信に満ち、また本気の苦渋を込めて男を罵る。思い上がるな、と。
 
「ふふふ……」

 男は面白そうに微笑むだけ。少女の言葉に反発するでも、感銘を受けるでもなく。ただただ、愉快そうに。
 不毛さに、少女が先に折れる。
 
「……それで? 馴れ合うような関係ではないでしょう? 私たちは」
 
「―――まぁ、そうですね。そういう関係ではない。確かに確かに」
 
 くすくすと笑いながら勿体つけた言い方。それが男の本質であると解っている。だが、解っているからといって、苛立つ気持ちは無くならない。
 そんな少女の憤慨を揶揄するように。あえて落ち着いた様子で杯を重ねると、カクテルをつぅっと店の照明に透かすように掲げる。
 
「しかしおいしいですねぇ。あなたもこれがお好みで?」
 
「ええ、"私"のお気に入りです……少々甘めですが、まぁ年齢的にもちょうどいいのでしょう」
 
 含みを込めた言い回し。くっくと陰に篭る含み笑い。
 闊達な少女らしい声質とは裏腹に、邪気に満ちた、暗い声。
 
「なるほどなるほど〜……ところでまだあの研究にかかわっておいでで?」
 
 にぃーっと口を笑みに変え、ごくり、とカクテルを飲み干す。
 さり気ない会話から本題に急転する。交渉の初歩だが、あえて少女はそれに乗る。
 
「まだ―――などと気安く言わないで貰いたいものですね。
 アレは、私の望みを叶える、唯一つの方法なのですから」
 
 声に含まれるのは、剣……そして、苛立ちと焦り。
 少女の興味を充分に引いた事を確信し、男は笑みを深め、殊更にとぼけて返す。
 
「おや。そういえばそうでしたか」
 
「含みますね、貴方も……それで、今度はどんな演目を用意したのですか?」
 
「ふふふ……貴方にとって良い事、とでもいいましょうか?」
 
「ほう……自信があるのようですね?」
 
「ええ。とびっきりなくらいに、ね?」
 
 くすくすと、男は笑う。子供のように。幼子のように。愉しげに。
 それを気障りに、少女はつんと横を向き、興味のない言葉を返す。
 
「精々、駄作ではないことを祈ります。観客に失礼というものですから」
 
「ははは。それではこれをごらんあれ」
 
 こらえ切れぬ笑いを零し――すぅーっと男は幻を作る。
 
「――――――ッ!」
 
「―――これがどういう意味かおわかりで?」
 
 息を飲む少女に、男は自分の作り出した幻影を視線だけでさし、問いかける。
 そこに、映し出された姿は、まるで。
 
「バカな……もう……いえ」
 
 少女の驚愕に、男は嬉しそうに微笑むのみ。ビックリ箱に成功した悪戯小僧のように。
 だが、すぐに少女も冷静さを取り戻す。よくよく見れば違和感が目に付く。
 食い入るようだった視線を刃のように鋭くさせ、男を睨む。
 
「……身長が違いすぎる、そして髪の色も…………これは、誰だ?」
 
 取り繕う事をやめた声は、恫喝のように重く、同時に焦燥を帯びて、
 
「そう。貴方の探す、けれど違う人物。―――系譜に連なるもの」
 
 なぞかけのような言葉の意味を、少女は正確に理解する。
 
「……これほど、見事な例は私の長い生の中でも2人目だ……」
 
 むしろ恍惚感すら滲ませ、喘ぐような声が漏れる。
 
「素晴らしい……これは、充分に『鍵足りえる者』の資格があるに違いない」
 
「ふふふ。どうです?喜んでいただけました?」
 
 不意に、少女の瞳に冷静さが返る。酔いに冷や水を掛けられたように、警戒心を取り戻す。
 
「…………なにが、望みだ?」
 
 低く問いかける少女に、男はむしろ心外だとばかりに笑みを深める。
 
「―――おや。僕が求めるものは一つだけ。ねぇ?そうでしょう?」
 
 くすくす。くすくす。変わらずに微笑んで。
 
「忌々しい…………が、乗ってさしあげましょう」
 
 澄まし顔を取り戻し、少女は一息にグラスを干す。
 利用され、利用し、そして相手だけを突き飛ばす。堕ちれば帰ることのない深淵に。潜れば果ての無い水底に。
 それが、唯一お互いの関係なのだから。
 
 
 くすくす。くすくす。道化師は笑う。
 
 笑って。笑って種を蒔く。
 
 ―――騒動という名の種を。そして水をあげ、育てていく。
 舞台をより面白くするために。