最終更新時刻:2009年7月8日(水) 21時35分
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個人の狂気を見い出すフィルタリングシステム

公開日時:
2009/06/09 17:37
著者:
佐々木俊尚

日本映画は風景を描く

 世界を代表する三つの国の映画産業――アメリカ映画とフランス映画、そして日本映画の違いって何だろうか? そういう問題提起がある。

 観点はさまざまにあるから単純化しすぎるのは危険かもしれないが、こういうひとつの切り口がある。「アメリカ映画は物語を描き、フランス映画は人間関係を描き、日本映画は風景を描く」。ハリウッド映画は完璧なプロットの世界で、物語という構造を徹底的に鍛え抜いて作り上げ、導入部からラストシーンまで破綻なく一本道を走り抜けられるように構成されている。

 フランス映画の中心的なテーマは、関係性だ。夫婦、父と子、男と愛人、友人。そこに生まれる愛惜と憎悪をともに描くことによって、人間社会の重層性を浮かび上がらせる。

 日本映画は、風景を描く。自然の風景という意味ではない。目の前に起きているさまざまな社会問題や人間関係の葛藤、他人の苦しみ、さらには自分の痛み。われわれにとってはそれらはすべて「風景」だ。どんなに深く関わろうとしても、しかしどうしてもコミットしきれない所与のものとして、われわれのまわりの事象はそこにある。だから日本映画には、向こう側に突き抜けられないことによる透明な悲しみが漂っていて、それがある種の幽玄的な新鮮な感覚として欧米人に受け入れられている。

アメリカは構造化する

 それぞれの国の映画がそれぞれそのような傾向にあるのは、その国の文化の成り立ちを色濃く反映している。その国の大衆文化は、つねにその国の民族を写す鏡である。

 極論を承知でものすごく単純化して言ってしまえば、アメリカという国は西部劇の舞台になるような小さな西部の町だ。何もない平原に彼らは遠くからやってきて、ゼロから自分たちで町を作り上げる。ならず者がやってきた。みんなで力を合わせ、保安官をもり立てて撃退する。

 フランスは古い貴族社会からブルジョワジーの台頭とともに、フランス革命とナポレオンの時代を経て共和制を作り上げ、血で血を争う暗闘を国を挙げて繰り広げてきた。だれが味方か、それともだれが明日の敵なのか。だからこの国は見た目の美しさとエレガンスの奥底に、移民と白人の対立に見るような凄まじい憎悪が立ちこめている。おたがいの関係性をつねに確認し続けなければ、安穏と暮らすことさえできない。

日本人は構造を作るのが下手だ

 しかし日本は違う。日本にも縄文時代に村落をゼロから作った時もあっただろうし、戦国時代や明治維新のような内乱の時代もあった。だがたいていの人々にとって、権力装置は自分でゼロから力を合わせて作り上げるものでなければ、血で血を争う暗闘の果てにつかんだ血塗れた旗でもない。私たちにとって権力というのは、「世間」「空気」のような言葉に代表されるなんだかわからない軟体動物のようなベタベタとした空間で、しかしこの空間はわれわれを絡めとって離してくれない。いったい何が敵なのかということさえ可視化されていない。

 これは言ってみれば、最強の権力構造でもある。この暴力的な権力構造は所与のものとして私たちの前に立ちはだかっていて、私たちは社会に直接向き合うことさえ許されてこなかった。

 人々は決して、その権力構造を作る側には立てない。権力構造はつねにそこに存在しているのであって、民衆はその構造に組み込まれる「お客さん」にすぎない。そういう社会に生きるということは、だからそこにひとつのあきらめ感を抱えながら生きていくということだ。もちろんそういう構造から突き抜けて生きていける一部の人はいるし、そのような人は尊敬されるかもしれないけれど、しかし多くの人にとってはそうではない。

 アメリカ文化は、つねに構造を生み出す。自分たちこそが構造を作る側なのだというプライドに満ちあふれていて、端から見ていて眩しいほどだ。でもわれわれ日本人は、残念ながら構造を作るような文化をこれまで生み出してこなかった。

軟弱で冷笑的で、でもすばらしい文化――それが日本

 こういう日本という国で生まれる文化は、軟弱だ。軟弱で、冷笑的で、一歩つねに傍観者的に引いている。でも軟弱であるがゆえの洗練はすばらしく、その洗練のゆえに日本文化は世界の中で尊敬され、賞賛されてきた。手先の器用さは、構造というビッグビジネスに立ち向かえないがゆえのチマチマした自己憐憫でしかなかったのかもしれないが、しかしそれが「俺たちが社会を作るぜ」ビッグ構造文化には持ち得ない、極端な洗練を生み出したのだ。だからわれわれは、すぐれて洗練された器用な文化を生み出しながらも、でもつねに冷笑的で傍観者的な立ち位置を保ち続けている。

 もっとぶっちゃけた極論を言えば、こういうことだ――どうせ構造をつくるような雄々しいことはできないんだから、暇つぶしにいろんなことをやってみようよ。

 そうやって日本の世間には権力側には行けないバカと暇人があふれ、枕草子を書いたり源氏物語を書いたり、歌舞伎や浄瑠璃や私小説を生み出してきたのだ。

 もちろんそうやってバカと暇人の膨大な集合体のなから、歴史に名の残るような芸術を生み出せた人はごくわずかである。たいていのバカと暇人は、先駆者の作ったコンテンツをただ消費するだけだったり、すばらしいコンテンツを揶揄して皮肉るだけだったり、バカだ荒らしだと批判されながら、衆愚の道をつねにまっしぐらに進んでいった。日本人が衆愚化しているのなんて別にいまに始まったことではない。江戸の昔から、歌舞伎オタクに身を持ち崩して財産を失い、乞食になって死んじゃうようなバカはいくらでもいたのである。

要するにこれはフィルタリングシステムである

 しかし日本文化はそういうノイズに塗れた中から、秀逸なひとにぎりのクリエイターを生み出してきた。そういうフィリタリングシステムを作り上げてきたのである。全員が力をそろえてひとつの構造を作り上げるのではなく、バカや暇人が好き勝手なことをやってただコンテンツ消費をしているだけの中から、フィルタリングしてわずかひとにぎりの天才クリエイターを生み出すというただそれだけのことを、日本文化は綿々とやってきたのだ。

 日本の文化は、つねに社会のメインストリームとは外れたところから生み出されてきた。圧倒的な男の漢文社会の中から生まれた枕草子や源氏物語がそうだったし、武家社会の中で生まれた町人文化である歌舞伎や浄瑠璃がそうだったし、明治維新の富国強兵の中から生まれた近代に批判的な目を向けた夏目漱石もそうだった。どうでもいい個人的な話を延々と描き続けた私小説なんて、その最たるものである。

 だから日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しないのである。つまりは古代から現代まで一貫して、日本の文化を担う中心軸はサブカルチャーだったのだ。ここに来て急にニコニコ動画やアニメのようなサブカルチャーが「日本の誇るコンテンツで海外に輸出しなければ」と言われて変に気恥ずかしい思いになってしまうのは、そういう歴史的背景がある。しょせんサブカルなんだから、気持ち悪いからそっちから歩み寄って来ないでよ……というわけだ。

 それはアメリカのような雄々しい国から見れば、くだらない社会かもしれないけれど、しかし圧倒的にすばらしいクリエイターを生み出す結果となった。アメリカはグーグルやアマゾンやフェースブックのような強いプラットフォーム支配者構造を作り出すことには長けているけれども、アメリカ映画やアメリカ音楽はマーケティングによって生産されたコンテンツが大半を占める。音楽にしろ映画にしろ、なにかインダストリアルな雰囲気がアメリカ文化につねに漂っているのは、そのように構造主導で文化が創られているからだ。

個人の狂気が文化を創る

 前に日本テレビで「電波少年」を作ったプロデューサーの土屋敏男さんとあるシンポジウムで同席していたとき、彼がこう言っていたのを思い出す。「ぼくの仕事は、いかにすごい『個人の狂気』を見つけ出すかということなんです」。バカや暇人と、すぐれたクリエイターの間にある境界は、ある種の「狂気」ということなのだろう。そういう狂気こそがバカと暇人文化における「玉」なのである。

 だから日本の優秀な雑誌編集者やテレビプロデューサーは、大衆文化のプラットフォームを作る側にたっているのにもかかわらず、みんなマーケティングがあまり好きではない。マーケティングではなく、個人の狂気たる自分の生理的直感によって勝負することが最上だと考えているのだ。それはたしかにすばらしい個人の狂気だけれども、しかし一方でアメリカの構造化された文化の奔流にさらされるときわめて脆弱に見えてしまう。

 日本の文化はそうやって続いてきた。だからインターネットの文化もその流れからは背を向けられない。だからその状況を指さして、「みんなでものをつくりあげていない」「集合知を生かしていない」と言われても、せんのない話である。

メディアは社会にどう影響するのだろう?

 じゃあこの先、どうなるのか。私はこのインターネットというテクノロジーが、それでも日本社会の構造を変えるひとつの契機になる可能性があるのではないかと、いまも考えている。メディアはメッセージであるというマクルーハンに沿って言えば、メディアはわれわれの社会というコンテンツそのものにも影響をもたらすはずだからだ。

 しかしその変化が、アメリカと同じタイプの社会へと収斂していくというのは、冷静に考えればあり得ない話だ。たとえばソーシャルメディアはその社会や民族性に固有のものであって、その国の文化の影響からは決して脱しきれない。だからわれわれの社会はインターネットというアーキテクチャーによってなにがしかの影響を受けるけれども、言ってみれば「日本社会+日本社会独自のソーシャルメディア」の結実になるだけの話であって、それが「アメリカ型のソーシャルメディア」にイコールになるわけがないという結論になる。

 そういう中で、一生懸命もだえながらわれわれは日本独自のインターネット空間を形成しつつある。そこにはニコニコ動画やはてなブックマークやモバゲータウンやケータイ小説がある。それは衆愚化しているように見えるけれども、いずれ新たな時代の洗練されたクリエイターを生み出す土壌となり、さらにはわれわれの社会をこれまでとは違うどこかの地平と運んでいくなにがしかのパワーにもなっていく可能性を秘めている。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。シーネットネットワークスジャパン および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。

このエントリーへのコメント

6

インターネットというテクノロジー自体も、最初はサブカルチャーだったのです。ですが今は、枝葉はともかく主要な部分はメインストリームに取り込まれてしまいましたので、この議論は手遅れではないでしょうか。

  po-jp on 2009/06/21

5

佐々木さんの上記比較文化論は教養を欠いた俺には敷居が高くまったく理解できなかったが、どうやら本稿は梅田というひとの発言を相当に意識した、一種の立場表明めいたものでもあるらしい。

はてブの反発ぶりを見ると、梅田発言、トレント発言からネティズンが相当のダメージを受けたらしいことがうかがえる。俺はネットオピニオン業界地図、ネット僧職ハイアラーキーをまったく知らない。梅田というひとはそれほどまでにキーパーソンなのであろう。ネティズンのこれほどの動揺ぶりは門外漢の俺にはただただ異様、不思議な光景で、まあ、ネットに生きるのもなんだかたいへんねえ、て感じである。

「怖気づくな、静まれェ!」。叱咤する将軍のもとによろよろと浮き足立ったネティズンの群れが慕い寄るのも無理はない。しかしなかなか重責である。にほんの特殊性を証明すれば突破できる戦場なのか。(村玉印度非緊急寄稿、おわり。)

  muratamind on 2009/06/14

4

私もすばらしいエントリだと思います。ぱちぱちぱち!

  yusuke on 2009/06/10

3

投票用紙に名前書く以外には大衆にはなんの権限もなくそれ自体に正義もない。意味が発生したところへ集散を繰り返す利害関係的なものも最終的には意図とは真逆のものとなる。間接的立法への参与の意思はメディア的熱とともに減退し、第4の権力は支持率という言葉で権力を操作しようとするがそれすらも飽きられ、第4の権力の基盤自体が没するとき、それ自体に注視しつつ、新たな社会合意用語を創出しようとする。

  noborin on 2009/06/10

2

日本のネットのあり方を正しく捉えた素晴らしい意見だと思います。ありがちな単なるアメリカとの比較ではなく、歴史や文化を考慮した上でないとこの手の意見は意味を成しません。イノベーションだ、グローバルだ、ギークだ、エリートだの一面性を捉えて総論に持ってくる方々に引導を渡した感があります。しかし、なぜ日本人はいつまでたってもアメリカと同じ土俵に上がることが全てのようになっているのでしょうか。

  wgarai on 2009/06/10

1

その構造のなさが,梅田望夫氏に「残念だ」といわれてしまうのかもなぁ.私はその個人の狂気が発生する土壌は「やさしい無関心」かもしれないと思っています.そしてやさしい無関心は一神教文化よりも多神教(ナイーブなアニミズムを含む)文化での方が許されやすい感情なのではないかと思います.そう考えて自分の友人たちのことを思い出してみると,一神教文化のマニアと多神教文化のマニアはすこし有り様が違っているようにも感じます.まだ「感じ」という程度なのですが,そのうち深く考えてみようと思っています.

  tsasaki on 2009/06/10

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