漢中に至った劉邦たちは、民衆を集めてあたらしい法を公布し、国としての一歩を踏み出した。 秦の時代の群府がのこっており、そこに政庁を置いた。小さな王宮であった。 しかし、小さいとはいえ王宮である。政事をとりしきる者が必要となったため、蕭何に白羽の矢が立った。役職は丞相である。 「さてもさても、大任をさずかってしまった。沛の小役人から一足とびに一国の宰相とは、驥尾に付すとはかくのごとしか。」 そう言いつつ、政務のために駆けずり回った。とにかくすべて一から始めねばならない。 まずは人材探しである。 読み書きのできるものは優先的に蕭何のもとへ集められた。ほかにも算術、建築、農林業にくわしいもの、冶金や工作の得意なもの、あらゆる人材をかき集めた。 「人を集めておいでなら、うちに一人おもしろい男がおりますよ。」 と、丞相府にきていた夏侯嬰からある人物を紹介されたのは、つい先日のことである。 夏侯嬰はかつて御者をしていたことから車両部隊を督率しており、輸送のことでなにかと顔を合わせることが多い。 「なんでも元は書生をしていたそうなのですが、楚軍に嫌気がさして抜けてきたそうで……。」 曰く、同郷の楚将のつてで楚軍にはいったものの、要職にあずかれずに出奔してきたという。 体格はいいが面貌に冴えがなく、話していてもどこか頼りない。しかし、軍事の話題になると火がついたように喋りだし、こちらは相槌をいれる暇も無いほどである。 ともかく、有能かどうかはわからないが奇貨とみた夏侯嬰は、蕭何にその男――韓信――を紹介してきたのである。 ほどなくして丞相府にあらわれた韓信をみた蕭何は、まずその身長に驚いた。 見たところ八尺かそれ以上――小柄な蕭何とならんで立つと、大人と子供である。 しかし表情にはいかつさはなく、どこか宙を見るような顔持ちに頼りない印象をうける。 執務室に韓信をいざなった蕭何は、基本的な面接をおこなった。 出身はどこか、読み書きはどのくらい出来るか、といった類のものであるが、韓信はボソボソとした受け答えをするばかりで終止うつむき加減であった。 これでは奇貨どころか、ただの木偶の坊である。 さては夏侯嬰め、もてあました愚図をこちらへ押し付けたな――などと考えながら、蕭何は別の話題をと韓信に水を向けた。 「さて、其の方はなにか特技はあるか?なければ有力者との人脈などでもかまわぬが……。」 と、途端に韓信がはね起きるようにして顔を上げ、まくしたてるように話し始めた。 「そ、それがしには旗鼓の才がございます。ひとたび将帥の印綬と斧鉞を賜れば、またたくまに海内を平らげてご覧にいれます。漢王様が私を得たことは、文王が渭水のほとりで呂尚を得たことに勝り、項籍が私を逃したことは、」 この唐突な大言壮語に蕭何は瞠目した。 先ほどまでの陰鬱な表情とうって変わって、目を血走らせながら話す韓信に気おされながらも、蕭何は何とか会話を続けようと試みた。