伊波普猷 いは ふゆう
1876-1947(明治9.3.15-昭和22.8.13)
言語学者・民俗学者。沖縄生れ。東大卒。琉球の言語・歴史・民俗を研究。編著「南島方言史攷」「校訂おもろさうし」など。



◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。写真は、Wikipedia 「ファイル-Jean-henri fabre.jpg」 「ファイル-Sakae.jpg」 「ファイル-Ito Noe.png」より。


もくじ 
南島のはづき / 琉球女人の被服 伊波普猷


ミルクティー*現代表記版
南島の黥
琉球女人の被服

オリジナル版
南島の黥
琉球女人の被服

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
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  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、異句同音の一部のひらがなに限り、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。


南島の黥
底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:「琉球婦人の黥」『日本地理風俗大系 第十二巻』新光社
   1930(昭和5)年3月28日

琉球女人の被服
底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『被服』第十四巻第五号
   1943(昭和18)年9月1日

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person232.html

NDC 分類:383(風俗習慣.民俗学.民族学 / 衣食住の習俗)
http://yozora.kazumi386.org/3/8/ndc383.html
NDC 分類:387(風俗習慣.民俗学.民族学 / 民間信仰.迷信[俗信])
http://yozora.kazumi386.org/3/8/ndc387.html





南島のはづき

伊波普猷

   一


 琉球婦人の手甲の黥に関しては、西暦十四世紀の中葉、中山王ちゅうざんおう察度さっとのときに、中山ちゅうざん最高の神官聞得きこえ大君おおぎみ久高くだか参詣さんけいの途中、暴風にあって日本に漂流した話に付着して生長した一つの民間伝承がある。この肝腎かんじんな女君が行方不明になった結果、いわゆる三十六島に凶年が続いたが、君守護神君真物きんまもん神託みせぜるに、女君は日本に行っているから早くむかえに行けとあって、場天ばてん祝女のろ船頭せどとなり、女人二十一人を督励とくれいして捜索に出かけた。一行は紀伊国に着いて、女君はつれて帰ったものの、当の本人はどうしたのか、聞得大君御殿に入るのをこばみ、与那原よなばるの浜にいおりを結んで一生をそこでおくり、死後はミツダケに葬られて、その守護神となった。そしてその付近にある大和やまとバンタという小高い岡は、彼女を坂迎さかむかえしたところから、その名を得たといわれている。またタジュクという魚は、このとき、場天ばてん祝女がおみやげに持って帰ってその近海で養殖したので、彼女がおりる浜辺には、いつでも群がるといわれている。
 以上は『遺老いろう説伝せつでん』ほか二、三の文献に載ったものの大略であるが、いま一つの伝承では、女君は紀伊国の片田舎の村長の妻になっていたので、ふたたび聞得大君御殿に入るのを遠慮したということになっている。それから、旧王家に伝わっている口碑では、話がもっとおもしろくなっている。すなわち紀伊国で長いこと村長の厄介やっかいになって、とうとう結婚を申し込まれたので不承不承に結婚することになったのを、一人の侍女アガマーの機知で、手の甲に黥をして三三九度のさかずきをやったが、男が杯を差し出したとき、女君が例の手を差し出すと、男はびっくりして杯を落としたので、不吉だといって式がおじゃんになったというのである。
 国家最高の神官ともあろう女君が、異国の百姓の妻になるのはおもしろくないという感情が手伝って、いつしかこんな伝承ができ、ついに南島の黥の起原もそこにあると考えられるようになった。この伝承はまた、島津氏の琉球入り後、幕府の命によって琉球婦人が江戸へのぼったという史実にも結びつけられるようになり、このとき、琉球ではいろいろ考えたあげく、手の甲に黥をさせて上国させたら、そんな女はいらないからとつっかえされたので、じらい婦人の黥が流行したといったように、その黥の起原をさらに新しくした。




   二


 島津氏の琉球入りすこし前に、琉球をおとずれた浄土宗の碩学せきがく袋中たいちゅうの『琉球神道記』には、黥のことがこう見えている。

また女人の針衝はづき(女人はてのひらの後ろに針にてしげくつきて墨をさすなり)何ごとぞや。伝聞。胡国ここくの女人、形みにくし。南国の女人の美にして色白きこと歯より過ぎたりと聞きて、おのが歯を黒めて白をあらわすなり。南米のかりまでも恋て含墨を加祢と名く。すなわち雁音なり。倭国わこくにこれを伝うと云々うんぬん和人わじん、分別なるべし)。私案いう。女は陰なり、ゆえに黒をあらわす。あらわす所は仏法に手印しゅいん歯印しいん・形印と云うことあり。体に墨することあり。手またしかりなり(いちおう男女の差別のためなり)。

 これはおそらく琉球婦人の黥のことが、日本の文献に現われた最古のもので、琉球語「ハヅキ」の語原について語る最初のものであろう。
 試みに、それがシナの文献にどう見えているかを調べてみよう。隋史『隋書』の「琉求伝」には、「夫人以墨黥手、為虫蛇之文」とある。この「琉求」が沖縄島おきなわじまのことであるか、それとも台湾のことであるかは、久しく学界で論議されたところで、先年、白鳥博士白鳥しらとり庫吉くらきちは「夷州および亶州について」という論文で、それが台湾であると断ぜられたが、でも博士は西暦七世紀前に琉球人がさかんに台湾と交通していたことを述べられ、リース博士〔Ludwig Riess〕もそのころ琉球諸島から台湾に植民したものがあったといわれたから、「琉求伝」中の黥は、よし琉球人のそれではないとしても、琉球人のそれとなんらかの関係を有するものにちがいない。
 『明史』の琉球伝には黥のことは見えていないが、大明だいみん一統志いっとうし』の琉球国の条には「黥手」とあって、「婦人以墨黥手。為飛蛇文」と注がしてある。この書は明の天順てんじゅん五年(一四六一)に編纂されたもので、明の洪武こうぶ五年(一三七二)以来、シナ・琉球間の交通はようやくさかんになって、このときまでに七回も冊封使さっぽうしを派遣し、また琉球の官生かんしょうらも国子監こくしかんに入学していたので、シナ人には琉球の風俗習慣はかなりよくわかっていたはずだから、黥に関する『一統志』の記事が『隋書』の縁引えんびきでないことはいうまでもない。
 それから十三年もたって、明の成化せいか十五年(一四七九)に、朝鮮済州島チェジュとうの人数名が、与那国よなぐに島に漂流し、一年有半もかかって、西表いりおもて波照間はてるま新城あらぐすく黒島くろしま多良間伊良部いらぶ宮古みやこ・沖縄を経由して帰国したが、彼らの見聞談を朝鮮の史官が書き取ったのが『李朝りちょう実録じつろく』中に載っている。それには南島の風俗・習慣・動植物などのことが詳しく出ているにかかわらず、黥のことがすこしも出ていない。自国にない風習だから、特に目につきそうなものだが、それについて語っていないのはいささか変である。たった一つの島のばあいならともかく、九つの島のことを順序を立てて、くどいと思われるほど詳細に物語っているから、その間には忘れていたのも思い出しそうなものだが、これを落としたのはどうしたわけか。
 明の嘉靖かせい十一年(一五三二)、琉球に使いした明人陳侃ちんかんの『使琉球録』は『大明一統志』の文句を引用し、「婦人以墨黥手、為飛文」と記し、さらに「其婦人以墨黥、花草鳥獣之形」と付け加えているが、これは『一統志』にもそう見えているが、来てまのあたり見るとなるほどそうだということである。これはじつに朝鮮人が漂流したときから六十年後のことで、『一統志』の記事が信用できないとすれば、この風習は、この六十年間に始まったとも見られる。

   三




 Edmund M. H. Simon 博士の "Beitrge zur Kenntnis der Riukiu琉球 Inseln. " Leipzigライプチヒ 1913.(一三六〜一四六ページ)に出ている沖縄諸島および奄美大島諸島の婦人の黥と W. D. Hambly 氏の "The History of Tattooing and its Significance意味. " London 1925(二六〇ページ)中に出ているサモア島婦人の黥とを比較してみた人は、両者のあいだに著しい類似点の存するのを見たであろう。そして後者中の、

The Malteseマルタ人 cross十字 design (page 256) is notable注目すべき for its exactness正確さ・厳格 of outline, and still more remarkable注目すべき for its persistence持続性 as an ornamental装飾的な for women of the Liu Kiu琉球 Islands諸島. In the "Cruise周遊船旅行 of the Marchesa, " M. Guillemard mentions言及する visiting訪問 the Riu Kiu琉球 Islands諸島 in 1883, and noting観察 that the cross十字 was a favouriteお気に入りの design, also that the marks on the Phalanges variedさまざまな in extent範囲 with the age of the individual. The entire全体 hand tattooタトゥー is not completed完全な until marriage結婚. M. Guillemard states that the design he noticed in 1883 is exactly正確に described描写された in Beechey's "Narrative物語 of a Voyage航海 in the Pacific太平洋" 1827.


という説明を見たら、思いなかばにぐるものがあろう。琉球人が元時代に南洋と通商していたことは、藤田博士藤田ふじた豊八とよはちの「琉求人南洋通商の最古の記録」という論文を見ても明らかであるが、彼らの南洋通商は明初シナと正式の交通を開始して以来、いっそう盛んになったから、彼らはサモアもしくはボルネオあたりで自分らの黥に酷似したものを目撃しておどろいたにちがいない。書名はちょっと思い出せないが、琉球の文献に昔の航海者が南洋のある島で婦人の黥のきれいなのを見てきて、それを自分の妻女に真似まねさせたのがはじまりで、漸次ぜんじ全群島に伝播でんぱした、といったようなことが見えているのは、そんなところからできた伝承のように思われる。「移中華之風易此土之俗」に腐心して、日もこれらなかった琉球王国の盛時に、こうした蛮風をことさらに真似まねたはずがないから、これは遼遠りょうえんの昔、南島人の文化の程度の低かったころ、ポリネシア人やインドネシア人などと隣接し、もしくは交渉したことでもあって、彼らの影響を受けたか、彼らに影響をおよぼしたか、とにかくそういったようなことがあったにちがいない。魏史『魏志』の「倭人伝」を見ると、この風習は当時、九州地方にもあったようだから、これはひとり南島の問題ではないような気がする。日本語とオーストロ・アジアティク語との関係が云々うんぬんされている今日、南島の黥と南洋のそれとの比較研究もまたおこらなければなるまい。



   四


 諸図で示した沖縄・大島・徳之島・宮古・八重山五島の黥を一瞥いちべつすると、島ごとに著しい特徴を発揮していることが知れるが、相互のあいだに根本的一致の存するところが見られる。なかんずく前の三者では、それぞれ年取るにつれて、線を太くしたり、一定の年齢に達して新たに特殊の紋様を増加したりすることはあっても、その形式は根本的に同一である。この図だけで見ると、後の二者でも同様だが、このほかにもなおいくつかの形式のあることを知らなければならぬ。これは笹森儀助氏の『南島なんとう探験たんけん(明治二十七年(一八九四)出版)に、左のごとき記事があるのでもわかる。

この黥は宮古婦人の手を写したるものにして、先島さきしまの黥は一定せず、各人自由にするなり。ゆえに二人を見れば甲「 」の類多くして、乙は「×」の類の多きがごときおのおの異なれり。しかれども首里・那覇その他各間切まぎりはこれと異なり一定の模様あり。人々異なるなどのことなし。当時の入れ墨はいずれの時代より始まりしやは知るに由なし。しかれどもおそらくは那覇に交通せし後ならん。何とならばこれを男の元服に対して女の元服といえり。ゆえにがい入れ墨も男の元服と同時代より始まりしならんと思う。

一、入れ墨は十一歳、十三歳のときこれをなす。また男の元服すると同じ。
一、竹の葉は、竹の如き真直なる心を有せんがためなりという。
一、十文字は織り物を上手にならんため、かしぎも同じ。
一、高膳たかぜんは、当地は中等以上はおしなべて美しき高膳に食する風あり。ゆえに後日上等の人とならんを祈りてなり。および握り飯も同じ意味に取りたるなり。
一、はさみは機、またい物を上手にならんとの意。
一、鳥の足裏は不明。

 他の四島の紋様にもいちいち名称と意義とがあるようだが、聞いておくのを忘れた。ただ、宮古のが沖縄ではになっていて、いったんした以上は帰ってこない象徴にされていることだけは確かである。このほか宮古の高膳たかぜん に相当する はビーマーといって、着物の模様の名からきたものであるが、八重山でもやっぱり b: ma といっている。これは大島・徳之島のにもあるが、何と呼ばれているかわからない。ここで具体的に説明することはできないが、南島の黥も、一時に完成されるのではなく、年齢とともに完成されてゆくことだけは断言してもさしつかえない。
 四、五年前、鬼界きかい島を訪れたとき、その婦人の黥が十人十色で、技術者により、部落により、家筋により、個人によって、趣きを異にしているのを見聞しておもしろいと思った。これらの紋様は『加無波良夜譚よばなし』の著者、岩倉市郎君の採集に待つことにして、ここには買い物をしていた老婆の黥をこっそり写生した一、二の例をあげるにどどめておくが、もりや、やどかりの模様などをたことも付記しておく。鬼界島や宮古・八重山の例から類推すると、他の島々のもかつて部落または家筋によって異なっていたものが、各島が政治的に統一された後、その統治者の家のに統一されて、同一形式のものになり、各島が琉球王に統一された後、さらに首里の影響を受けたように思われる。鬼界島でも沖縄諸島同様に、黥は一時代前に禁ぜられて、今日では六十歳以上の老婆でなければ見られないから、今のうちに採集しておく必要がある。



   五


 南島の黥もやはり宗教的意義を有していたようである。琉球の漢詩人喜舎場きしゃば朝賢ちょうけん翁の『続東汀随筆』にこういうことが見えている。

女子すでに人にすれば、すなわち左右の手指しゅし表面に墨黥す。これを波津幾はづきという。鍼衝はりつきの中略なり。婦女もっとも愛好す。もし久しく白指なる者は、ちくりこれを笑う。ゆえに、二十一、二をすぎて墨黥せざる者なし。『隋書』「流求伝」に、婦人手に墨黥して梅花の形をなすと。上古の遺風なり。すでに黥して数年を経れば、墨色淡薄になる。ふたたび黥して新鮮ならしむ。すでに黥して五、六回におよぶときは終身淡薄になるうれいなし。置県の今日にいたり、人身墨黥するを許さざる法律を発せらる。もしこれを犯しおよびこれを業となす者あらば、とらえられて処刑せらるるにつき、ついにその悪弊をめたり。

 はじめて黥するときは、閑静かんせいな別荘などを借り、親戚縁者を招待してごちそうしながらおこなったものであるが、このとき十二、三歳ぐらいの少女たちは、図のごとき黥をしてもらい、黥の色のあせた人たちもその上に黥をしてもらうのであった。歌などをうたっていたところから見ると、古くはオモロなどをうたって、宗教的儀式をおこなっていたことが推測される。すでにした者が黥をしないうちに死ぬことがあったら、そのままであの世に行くと、葦のイモを掘らせられるというので、手の甲にその紋様を描いてやって、野辺のべ送りをすることになっていた。ついでにいうが、あしのイモを掘ることは、あの世での最も苦しい労働だと信じられている。
 清の康煕こうき五十八年(一七一九)に琉球をおとずれた冊封副使徐葆光じょほこうは、その『中山ちゅうざん伝信録でんしんろく』中に、婦人の黥についてこう記している。

手背皆有点。五指脊上。黒道直貫至甲辺。腕上下或方或円或�V。為形不等。不尽如梅花也。女子年十五。即針刺以墨塗之。歳歳増加。官戸皆然。聞先国王曾欲変革。集衆議。以為古初如此かくのごとし。或深意有所禁忌。驟改前制不便。遂至今仍之。過市所見。無不尽蔵。

 かつて廃止しようと試みたが、因襲の久しき、どうにもすることができなかったらしい。それから四十四年もたって、わが宝暦十二年(一七六二)の夏に、琉球国の楷船かいせん(薩摩に貢物みつぎものを積んで行く船)が土佐の大島に漂流したとき、土佐の学者の戸部とべ良熙よしひろが、琉蔵役の潮平シュンジャ親雲上ペーチンに琉球の事情を聞いて『大島筆記』をものしたが、その中にも琉球婦人の黥に関することが見えている。戸部氏は「女子は歯を染めることなし。島女は手の甲に入れぼくろをする由なり。通考などに文身ぶんしんのことあるはこれゆえにや。本琉球の女顔手などに何ぞ彩をするにやと問いしかど、さようのことはなき由云えり」といって、「良煕謂、伝信録でんしんろく』に琉球女の手の甲にいろいろいれずみすること分明に記せり。前代国王の中にもこのことをいとい止めんとせしことなどありし由かければ、今に琉人かくせるも知るべからず。または問い様きこえざりしにや。薩摩の士島女の手甲の入れずみたしかに見たりし由を伝え聞くに、『伝信録』に記せる通りなり」と注している。海外に使いした昔の琉球人が、この奇風を聞かれて閉口したことが、よくこの中にあらわれている。終わりに、開化せる現代の南島人のある者は、宗教的意義を持つこの装飾のかつて存在したことを人に知られるさえ苦痛とし、ひいてその過去のいっさいの文化をのろうまでに、民族的卑下心の持ち主になっていることを付記しておく。
(完)



底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:「琉球婦人の黥」『日本地理風俗大系 第十二巻』新光社
   1930(昭和5)年3月28日
入力:しだひろし
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琉球女人の被服

伊波普猷


 古琉球女人の被服は、近ごろ画家などによって紹介される近代琉球婦人のそれ(第一図)とはかなり異なるものであった。だいたい朝鮮、わけても高句麗のそれに似て上下の二部に分かれ、上衣うわぎには「どぎぬ」(上体の衣の義、今はドジンとなまっている)といい、下裳したもには「かかも」(カカムに転じ、カカンとなまった。八重山やえやまではカームといい、大島ではカンという。モは裳の義だが、カカの義はわからない。るして垂れる義のかると関係があるか)といったが、徳川時代の中期ごろに編纂されたと思われる『江戸立之時仰渡並応答之条々之写』中に出ている琉球婦人之図(第二図)は、そのころの上流社会の女人の服装を示すものと見てよい。


首里・那覇の婦人らは、男子の海外へ旅立ちした日、その家に集まりきたり、手拍子やつづみにあわせて、「旅ぐわいにや」をうたいつつ、輪になっておどってこれを祝福したが、この風習は日露戦役のころまでおこなわれていた。古くは畳をかたづけて、床の上でおどったので、いたとどろ(板轟)といった。

 嘉永・安政(一八四八〜一八六〇)ごろ、薩摩の藩士名越なごや左源太さげんたが大島謫居たっきょ中にものした『南島雑話』には、当時、大島にいた琉球遊女の図が出ているが、これによって遊女の服装が知れるのみならず、一般女人のそれをも推知するに難くない。




 琉球最後の国王尚泰しょうたいの近侍で、漢詩人であった喜舎場しゃ朝賢ちょうけん翁の『東汀とうてい随筆』(大正元年(一九一二)十一月稿)第二巻「国人男女衣帯いたいの事」の中に、こういうことが見えている。

昔は婦人・女子みな胴衣裙ドジンカカンを着ており、門を出るにはかならず単衣チーヂン(冬)・たなし(夏)を上衣うわぎとなす。中山ちゅうざん伝信録でんしんろく』に当時の風俗をことごとく図面にあらわせるが、老幼の婦女ことごとく胴衣裙ドジンカカンを着たり。『伝信録』は今をへだたる二〇〇年ぐらい前の冊封使さっぽうし徐葆光じょほこうしるすところなり。今をへだたる一〇〇年前までは、婦女みな胴衣裙ドジンカカンの装束にて、はかま(さるまたのゆっくりしたもので、ひざの下に至るものにいう)を着たるものなし。婦女のはかまを着たるは娼妓しょうぎよりはじまるという。当時、娼児小女郎こじょろうのこと)酔漢すいかんのために弄悩わにやくせられ、抱き持してさかさまになし、下体をことごとく赤裸あかはだかとなし笑いもてあそぶより、これを防ぐために、くん裳裾もすそにかわるにはかまをもってしたり。これよりはじまりて首里・那覇の婦女におよびたりという。今は女子婚礼のときのみに胴衣裙ドジンカカンの装束をなす。けだし古風によるものなり。ただ御城女性のみは、壮年のもの冬至・元日などの大礼ことごとく胴衣裙ドジンカカンの装束をなせり。年長のものは、袷衣わたぢん(冬)・たなし(夏)を上衣うわぎとす。下衣はかならずしも胴衣裙ドジンカカンにあらず。

 これは琉球女人の被服の変遷を簡単に物語るものだが、祭礼以外にも、胴衣裙どじんかかんのつい近代まで特殊の階級におこなわれていたことには、いたって確実な証拠がある。薩摩の在番奉行所から茶帳という免許状を交付されて、茶の販売にたずさわっていたわたしの祖母も、商用で外出するときにはいつもこれを着ていた、と父の叔母おばから聞かされたが、この特権を得たのは安政十一年「安政十一年」は底本のまま。の三月六日、祖父が大和やまと横目よこめ職に任ぜられたころで、その在職の三年二か月間はこれを有していたわけだから(この制度の説明は他の機会にゆずる)、この風俗はご維新の直前までのこっていたと見てさしつかえなかろう。しかも今日の沖縄県人中、これを知っている者はいたって少ないようだ。





 由来、風俗の変遷はいたって徐々であるために、記録者の注意をひかない場合が多く、いつしかその過程などぜんぜん忘れられて、変わりはてた状態が昔ながらのもののように考えられがちだが、とにかくこれを目撃した人からわたしの聞いたこの実話は、こうして忘れられた事実のたまたま伝えられた一例で、風俗史の資料として決して文献におとるものではない。引用した『東汀随筆』の記事中にもふれてあるとおり、中山ちゅうざん伝信録』第六巻には、板舞いたまい(第五図)と女集図(第四図)とが出ているが、遊戯をしている少女も、市場に集まっている婦人もおおかた「どじんかかん」をつけている。ただし、女集図中に「どぎぬ」のかわりにかすりの長い上衣うわぎをつけたのが見い出され、なおそれが同書中の機具の図(第六図)にも見い出されて、機上の女の上衣うわぎには、上前うわまええりを右脇に引きまわして、ひもで結んだところがうかがわれるが、これなどは近代の被服にまで発達する過程の一端をほのめかすものである。『伝信録』の著者徐葆光じょほこうは、清の康煕こうき五十八年(わが享保四年(一七一九)、琉球国王尚敬しょうけいを冊封するために渡島した副使で、八か月間も滞在してこの報告書をものしたのだから、その書名の示すごとく、信を伝えていると見てさしつかえなかろう。
 当時は琉球の文芸復興期ともいうべき時代で、冊封使さっぽうし宴席えんせきの興を助けしめるために、玉城たまぐすく朝薫ちょうくんに命じてはじめて組踊くみおどりと称する楽劇を創作させたが、例の女人の服装はこうした演劇の着付きつけにも反映している。そのときのテキストは伝えられていないが、これを踏襲とうしゅうして冊封使さっぽうし渡来ごとに使用した現存する二、三種のテキスト中の着付との比較によってだいたいはうかがい知ることができる。すなわち「銘苅子めかるしい(羽衣)の着付には「天女、垂髪たれがみ、紫長巾(ひれ)、作花並金銀水引、熨斗のし紙差天冠てんかん、琉縫薄衣裳いしょう、飛衣、緋紗綾さや足袋たび、金銀薄磨之柄杓ひしゃく持、娘、髪作花差、巾垂、時服胴衣どぎぬ、裏緋紗綾さやひざひだ取裙とりかかむ、緋さや足袋たび」と見え、「孝行之巻」のそれには、「姉(娘)、垂髪、紫長巾、作花差、時服胴衣裏緋さや、ひざ取かかむ、緋さや足袋たび手籠てかご持ち出る、ただし蛇祭のとき、髪白巾、白紗綾さや衣裳いしょう。母、垂髪、紫長巾、琉縫薄衣裳いしょう、緋さや足袋たび云々うんぬん」と出ている。なおこの劇作家と同時代の画家殷元良いんげんりょうによって描かれた、天女が子らに別れて昇天する彩色画の、銘苅子めかるしいの説話にちなんで建てられた銘苅御殿の小祠しょうしに安置されたもの(古ぼけて不鮮明になったのが、明治八年(一八七五)に島袋という画家に模写させて取りかえたという)の服装にかよっているのは注目に値すべく、しかも後者では天女の上衣うわぎがかなり短かいので、白い下裳したもがおぼろげに見える。娘の「どぎぬかかも」の装束はややはっきり見える。
 これより半世紀もたって、土佐の学者・戸部とべ良熙よしひろの手になった『大島筆記』という書(宝暦十二年(一七六二)、薩摩へのぼる琉球の楷船かいせんが、大風にあって土佐の大島に漂着したとき、琉球の事情を潮平シュンジャ親雲上ペーチンに根ほり葉ほり聞いて採録したもの)の琉球の人物風俗の条衣服の項にも、「女は胴衣を着る。ひもくくりなり。諸方ひもにてしむる。足肌のはかまも着るなり。上衣うわぎを打ちかけに着る。帯なし。上着うわぎのつまを深く引き違え居るなり。緋色ひいろは幼年のとき着る。すでにしては青黄などを着るなり。上官の婦人他所よそへ出るにはきょうにのる。乗らざるときは上着うわぎの上へまた衣を頭よりかづくなり(注、日本のかつぎのごとし)。女小姓両脇に二人、前に一人、これ身を離れざるなり」と出ている。ただし、「かつぎ」はその以前からすたれつつあったとみえて、寛保二年(一七四二)十一月、寺社座から那覇横目よこめに達せられたものに、

市へ出候士女ども、銀のかんざし差し、衣裳とも結構けっこうに仕出候方茂有之、見分不宜笑止千万に候。往古者士の女ども、市立不仕候而不叶みぎりは、衣をかぶり罷出候ところ、頃日けいじつみだりに罷成まかりなり、女性の恥辱ちじょくを不顧自由がましき体不宜候間、跡々之様に衣をかぶり可罷出候。若違犯いはん之者於之者、科銭かせん二十貫文可申付候。『親見世旧記』

ということが見えているが、比較的近代までこの風習のおこなわれていたことを知っているものがまったくない。このいでたちも画家などが筆にしないうちに、いつのまにか影を隠して伝えられなくなった一例だが、一時代前まで嫁入りのときに花嫁はなよめが紺の生芭蕉なまばしょう上衣うわぎをおおったり、葬式のときに身内の女が白の生芭蕉の上衣うわぎをおおったりして謹慎をあらわしたのは、おそらくその祭礼に保存されたものであろう。この「かつぎ」の風習の四、五百年前から外国の採訪者に注意されていたことについては後にいう。同『筆記』にはまた、「上官の女には冠服各段の制ありて、冠瓔珞ようらくさがり、服は五重いつかさねなるなり」とも見えている。那覇や久米などには嫁入りの翌朝、昼戻ひるもどりと称し、親戚朋友にかしずかれて里に帰る儀式があったが、そのとき花嫁はなよめは白の下裳かかもの上に、下から上へたぶん白緑青紅黄の順序で、しかも一寸五分ぐらいずつ短くなった五重いつかさねの上衣どぎぬをつけて、その上には例の「かつぎ」をかぶっていたように覚えている。
 以上、文献や口碑によって、数十年前まで首里・那覇の女人の平常でも「どぎぬかかも」を着ていたことを知ったが、これはまた俚歌りか・童謡によって裏づけられる。子どものときにわたしたちのうたった童謡に、

彼方あまからめんしェるちゅ嬢小あやぐわ、どぢんのをうにもふさつけて、かかんの緒にも総つけて、うちはういはういあゆしェーさ。

というのがあったが、民謡にも、

胴衣どぢんあせしぼて、下裳裾かかんすそらち、遊びゆたる我身わみもおとなたさ。

というのがある。ふだん「どじんかかん」を着てなかったら、こういうものの作られたはずがない。なおこれを方処的ほうしょてきに考察する必要もあろう。宮古・八重山諸島にも祭礼のとき、女人の「どじんかかん」をつける風習は明治の後期ごろまでのこっていたが、ことによるといまだに見られるかもしれない。明治四十年(一九〇七)の春、八重山に民俗採集に行ったとき、たまたま宮良みやらの小学校の卒業式に列席して、来賓らいひん中の婦人たちが一人も残らず第七図〔割愛〕のような「どじんかかん」をまとうているのを目撃したが、上衣うわぎが長すぎて下裳かかもは容易に見えなかった。あとで宮古島のも同様であることを知った。
 ちなみにいう、この被服の全盛時代にいわゆるハカマ(ズロース)をつけていなかったことについては前にふれておいたが、その遺風が離島などでは一時代前まで見られた。大正二年(一九一三)の夏、はじめて久米島を訪れたとき、島の女にハカマをつけない者のかなり多いのを見て、古俗のこの孤島に保存されていることを知った。大島諸島には、大正七年(一九一八)から昭和四年(一九二九)までに三度も採訪したが、ここには、この古俗のひとしお忠実に保存されていることを知った。いわゆるハカマの流行しなかったずっと以前に、沖縄の管轄かんかつを離れたところだから、くだんの事実があってもべつにあやしむにたらない。二十年前、郷里の新聞に出た津堅島つけんじまの青年会の決議事項中に、この島の若い女が昼労働するときにはハカマをつけないで、夜遊びに出かけるときだけこれをつけるのは不条理だから、以後常住つけるように、ということがあったのを見ても、その近代の発達であることは推測するにかたくあるまい。これを花柳界から始まったという伝承と照らしあわせると、性に関する問題にもれるがここにはぜいしない。
 ついでに、首里の女のハカマについて一言しておこう。その上流社会のは、右の方には下裳かかものごとく特にひだがついていてかなり広くなっているので、小用などそこから便ずるようになっているが、もしかしたらこれは下裳かかもがハカマになるまでの過程を示すものであるかもしれない。その平民の女の着るものにも、腰巻の後方のすそのはしを取って、またをくぐらせ、へそのあたりで布の両端を結んだところに差し込む式のがまれに見い出されるが、これなどもたぶん下裳かかもの変形したものであろう。一言ひとこと付け加えておくが、首里・那覇の婦人は、月経時にハカマの下に越中ふんどしのかっこうをした紺のふんどしを、先の方をうしろにまわしてつけるようになっていた。これにはメーチャーといい、マヘハキャーの転で、前佩まえはきすなわち陰部につける物の義があるが、田舎や離島などの女には、ハカマのかわりにふだんでもこれを使用する者が多い。芭蕉布で仕立てたすけて見える着物をつけるところで、上衣どぎぬ下裳かかものすたれるにつれて、ハカマやメーチャーなどの進出したのは、けだし当然なことである。前掲『南島雑話』に御印おいん加那志がなしの図(第八図)が出ているが、御印加那志は首里之印のした辞令書を持っている神女のことで、ノロクメ祝女のろくもい)かしらにいう。いま一つ、阿良不利あらふりの図(第九図)が出ているが、阿良不利は新触すなわち初めて神の霊にふれる処女の義で、島の女は一度はこうして神に仕えなければならなかったらしい。いずれも上衣どぎぬ下裳かかもをつけているが、別にかかんの図があり、それにはカンといい四十八のひだがあるので、俗に四十八ひだともいう、と説明が加えてある。祝女の装束の沖縄のそれ(第十一図〔割愛〕に比較してひとしお古風であるのは、たぶん沖縄では慶長十四年(一六〇九)の島津氏の琉球入り以後、制度の変遷につれて神人の服装にも変遷があったにかかわらず、じらい母国との連絡がたれて、これを知らなかった大島諸島では分離当時ののを墨守して固定させたためであろう(拙著『をなり神の島』所収「鬼界雑記」中、祝女のろ服装しゆがりの項参照)



 とにかくこうして孤立した同列島は、琉球の民俗や言語などで、慶長以前からあったか、その後に発達したかを見分ける目安になるから、「どぎぬかかも」の近代の発達でないことはいうまでもなく、これより半世紀前、すなわち明の嘉靖かせい十一年(わが天文元年(一五三二)に、渡琉した冊封使さっぽうし陳侃ちんかんの『使琉球記』〔使琉球録〕中にも、婦人の服装について、上衣うわぎ之外、更用幅如帷。蒙之背上。見人則以手下之。而蔽其面下裳かかもかかん。而倍其幅。褶細而制長。覆其足也。其貴家大族之妻。出入則戴
。坐於馬上。女僕三四従之。但無布帽毛衣螺佩之飾」と記してある。上衣うわぎ下裳かかものほかに「かつぎ」をかぶる風習のすでにおこなわれていたことが知れる。それは陳侃ちんかんと同じころに琉球を見ていった朝鮮人の『琉球風土記』にも、「女冠如本国円筐子。人不其面。唯命婦戴之。其余用所著衣蔽面而行」と見えている。この「かつぎ」は、近代までおこなわれていた婚礼や葬礼の時のものから推すと、「どぎぬ」とは制を異にして和服に近くなっていたらしいから、たぶんは室町時代の被服の影響を受けて発達したもので、「かつぎ」のすたれた後、第一図のごとく「どぎぬかかも」の上から羽織はおるようになって、近代の札服にまで発達したと思われる。
 それから半世紀さかのぼって、明の成化せいか十三年(わが文明九年(一四七七)に、朝鮮の済州島チェジュとうの人民が、琉球群島の西南端の与那国島よなぐにじまに漂流し、八重山および宮古の島々をへて沖縄に送られたことがあり、その見聞談が『李朝りちょう実録じつろく』に採録されているが、各島の風俗・習慣・動植物のことが詳細をきわめている。とりわけ与那国島の被服のことについては、「その俗、冠帯がない。暑い時分には棕葉でかさのようなものを作るが、朝鮮の僧侶のかさに似ている。麻や木綿がない。かいこも養わない。ただ苧(からむし)を織って布となすのみだ。衣を作るには直領のようにして、えり襞積ひだとがなく、そでは短くてひろい。藍青が染めてある。中裙はだぎには三幅の白布をもちい、引きまわしてしりのあたりで結ぶ。婦人の服もまた同様だが、内からをつけて、中裙はだぎがない。裳にもまた青が染めてある」といったように記してある。それから西表いりおもて波照間はてるま黒島くろしま多良間伊良部いらぶ宮古みやこの項でも、被服についてはいずれも与那国と同様だとしてあるから、この男子衣褌、女子衣裳いしょうの風習は、南島一般におこなわれたと見てよい。なお沖縄本島では、曲玉まがたまは神女が祭祀のときだけはき、脚結あゆいはその北部地方で祭祀のときだけやるのに、右の記事中にはこれらの島々では二つながら不断ふだん一般に用いていると見えてあるが、これらは右の服装とともに、日本上世の埴輪はにわに現われた偶像の服装を連想させるものである。男女とも帯をもちいず、上衣うわぎ上前うわまえを引きまわして、ひじのあたりで結ぶ、と見えているのも注目すべく、この古俗の女人の被服にのみ保存されて現在に至った理由については最後にふれる。
 琉球国の項には、「男女とも頭上に椎髻ついけいをして、はくをもってこれをつつんでいる。庶民はみな白苧はくちょの衣をつけている。婦人は脳後に椎髻ついけいをしている。そしてみな白苧布のさんと白苧布の裳とをつけている。貴人は綵段さいたんをつけているが、襦襖や児襦の裳もある。守令しゅれいは斑染マでもとどりをつつんでいるが、白細苧布の衣をまとまって、紅染めの帛を帯にし、外出するときには馬にまたがって、従者が数人もついて行く」と見えている。そこ(那覇)には唐の商人や江南こうなん人や南蛮人もきて商館を開き、市場では綵段さいたんマ帛かいはく、苧布、生苧、南蛮国斑マはんかい、斑マ布、黒綿布、唐青白綿布などを売っている、と見えているが、神歌かみうたおもろに、唐南蛮とうなばん寄り合うなはどまり」と歌われたごとく、このころ、その海外貿易はひとしお頻繁ひんぱんとなり、くだんの文化品がおびただしく輸入されて、その服装にかなりの影響をおよぼしたことが知れる。そして南島文化の中心から漸次ぜんじ上下かみしもはなれ」(田舎および属島)伝播でんぱしたことは、この時代の神歌かみうた中に、北部地方の神女の首里王府から「絵がき御羽みはね」を交付されることを歌ったのがあるのを見ても知れよう。これには胡蝶形はべるがたまたは蜻蛉あけづ御衣みそともいって、いまだに所々に保存されているが、わたしはかつて久高島くだかじま外間ほかま祝女のろの家で白地の絹布けんぷに花鳥の絵のかいたものを見たことがある。第十二図のごときもその一例と見てよいが、久高島のは第十一図〔割愛〕のごとくそでがずっとひろくなっている。




 思うに、南蛮更紗さらさ京形きょうがたなどを模倣して、紅型びんがたあるいは型付かたつけと称する琉球更紗さらさ(第一図参照)の、発生したのはこれらの舶来品の輸入されてからずっと後のことで(拙著『をなり神の島』所収「琉球更紗の発生」参照)、高価な舶来品は主として特殊階級にもちいられ、「上下、地はなれ」の神女などには、代用品の絵がきみはねが交付されたであろう。おそらく絵がきみはねは、後に形付かたつけ衣装の同義語にもなったにちがいない。国頭くにがみ郡の辺戸へど祝女のろ大宜味城おおぎみぐすく祝女のろが、祭式のときには白地の神羽かんばねをつけて、式がすんで祭式舞踊に移ると、替衣装と称して紅型びんがたの衣装に着かえるのは、伝統を尊ぶ精神のあらわれである。
 混効験集こんこうけんしゅう(古代琉球語の辞書)の衣服の条に、「ひらぬき、真苧布またはうみばせを、紺に染め、裏を付けるあわせなり、昔は女性正式の衣とす」とあり、また「ちょうぎぬ、朝衣ちょういなり、三司官さんしかん以下、束帯そくたいのとき用之」「あふばせをむしよ、青芭蕉御衣なり、按司部あじべ束帯のとき着たまう、四時用之」とあるが、いずれも生芭蕉なまばしょうで製したもので、夏冬の別なくこれを用いたことが知れる。おもしろいことには、祭礼のときに舶来の絹や木綿などの衣の上からこれを著けることになっているが、これも等しく古俗を遵守じゅんしゅする精神のあらわれで、南島被服史の好資材である。
 なおここで注意すべきは、男子の被服が早くも和服化して、帯が著しく発達したにかかわらず、女子のそれにはかなり古式が保存されて、帯のほとんど発生しなかったことで、これは古来、その保守的な女人がもっぱら祭祀につかさどったためであるが、気候風土などの影響も多分に手伝っていると思う。下裳かかもから派出したハカマには緒は着かないで、これを細帯でしめるようになっているが、上衣どぎぬの上から羽織はおる「ひらぬき」もしくは「青芭蕉み衣」にはもちろん用いず、与所よそゆきには、第十三図のごとく、上前うわまえを右脇に引きまわして、着物の上からハカマの細帯に差し込んで止めるようになっているので、俗にウシンチーと言っている(第一図のつづみを打つ女もウシンチーをしている)。これには押し貫き(差し込んで止めること)の義がある。屋内で仕事をするときには、紺の兵児帯へこおびをしめることがあるが、そのままでは来客に接しないことになっている。遊女はなんでも流行の尖端せんたんを切るもので、博多帯なども用いるようになったが、しかし、一般に流行するには至らなかった。というのは、帯がその気候風土に適しないからである。
 以上、琉球の被服史を略述したが、これは日本建国のころ九州方面より南漸して、久しく氏族制度を維持していた海人部あまべの一支族が、院政時代以降、時をおいて東北より南下した侵入者と接触した結果、いわゆる琉球文化の発生を見たという卑説(拙著『日本文化の南漸』および『沖縄考』参照)に、一証左しょうさを加えるものである。終わりに、その明治以後の変遷にふれて、結末をつけよう。
 そこでは、日清戦争後、男子の断髪が増加するにつれて、その服装も漸次ぜんじ日本化したにかかわらず、女子の和装の流行しだしたのは、日露戦争後であるが、古来、帯をもちいなかった琉球婦人が幅の広い帯を使用するようになったのは、衣生活史上の大事件であった。全国の同性と調子を合わすのはやむをえないとしても、あんな常夏とこなつの国で朝から晩まで汗だくになってあえいでいるのは、災難というのほかはない。それから最近モンペが流行し、野良仕事などもそれをつけてやらなければならないようになっているが、これまた帯同様にたえられないものであろう。
 とにかく、本邦が寒帯から熱帯にまたがっているかぎり、どの地方にも適するという被服を制定することは困難であろうが、なるべく伝説に即して、清楚せいそでしかも実用的な、女子の被服を考案していただきたいものである。それができあがったら南方の同胞もあんな不条理な衣生活から解放されるであろう。
(昭和十八年(一九四三)八月八日稿)
(元沖縄県立図書館長)



底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『被服』第十四巻第五号
   1943(昭和18)年9月1日
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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南島の黥

伊波普猷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)察度《さっと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中山王|察度《さっと》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)蘆《いおり》[#「蘆」は底本のまま]

 [#…]:返り点
 (例)下馬被[#レ]仕候事

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)山城[#(ノ)]國

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Beitra:ge〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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   一

 琉球婦人の手甲の黥に関しては、西暦十四世紀の中葉、中山王|察度《さっと》の時に、中山最高の神官|聞得《きこえ》大君《おおぎみ》が久高《くだか》島参詣の途中暴風に遭って日本に漂流した話に附着して生長した一つの民間伝承がある。この肝腎な女君が行方不明になった結果、いわゆる三十六島に凶年が続いたが、君守護神|君真物《きんまもん》の神託《みせぜる》に、女君は日本に行っているから早く迎えに行けとあって、場天《ばてん》祝女《のろ》が船頭《せど》となり、女人二十一人を督励して、捜索に出かけた。一行は紀伊国に着いて、女君はつれて帰ったものの、当の本人はどうしたのか、聞得大君御殿に入るのを拒み、与那原《よなばる》の浜に蘆《いおり》[#「蘆」は底本のまま]を結んで、一生をそこでおくり、死後はミツ嶽に葬られて、その守護神となった。そしてその附近にある大和《やまと》バンタという小高い岡は、彼女を坂迎えしたところから、その名を得たといわれている。またタジュクという魚は、この時、場天祝女が御土産に持って帰って、その近海で養殖したので、彼女が下りる浜辺には、いつでも群るといわれている。
 以上は『遺老《いろう》説伝《せつでん》』ほか二、三の文献に載ったものの大略であるが、今一つの伝承では、女君は紀伊国の片田舎の村長の妻になっていたので、再び聞得大君御殿に入るのを遠慮したということになっている。それから、旧王家に伝わっている口碑では、話がもっと面白くなっている。すなわち紀伊国で長いこと村長の厄介になって、とうとう結婚を申込まれたので、不承不承に結婚することになったのを、一人の侍女《アガマー》の機智で、手の甲に黥をして、三三九度の杯をやったが、男が杯を差出した時、女君が例の手を差出すと、男はびっくりして、杯を落したので、不吉だといって、式がおじゃんになったというのである。
 国家最高の神官ともあろう女君が、異国の百姓の妻になるのは面白くないという感情が手伝って、いつしかこんな伝承が出来、ついに南島の黥の起原もそこにあると考えられるようになった。この伝承はまた、島津氏の琉球入後、幕府の命によって琉球婦人が江戸へ上ったという史実にも結び付けられるようになり、この時、琉球ではいろいろ考えた挙句、手の甲に黥をさせて上国させたら、そんな女はいらないからと、つっかえされたので、じらい婦人の黥が流行したといったように、その黥の起原を更に新しくした。

[#図版(01.png)]
上右:首里 上左:那覇 下右:八重山 下左:宮古その一(いずれもシーモン博士写生)

[#図版(02.png)]
上右:宮古 その二 上左:徳之島 下右:大島その一 下左:大島その二(いずれもシーモン博士写生)


   二

 島津氏の琉球入少し前に、琉球を訪れた浄土宗の碩学|袋中《たいちゅう》の『琉球神道記』には、黥のことがこう見えている。
[#ここから2字下げ]
又女人ノ針衝《ハヅキ》(女人ハ掌ノ後ニ針ニテシゲクツキテ墨ヲサスナリ)何事ゾヤ。伝聞。胡国ノ女人形醜シ。南国ノ女人ノ美ニシテ色白キコト歯ヨリ過タリト聞テ、己ガ歯ヲ黒メテ白ヲ顕ス也。南米ノ雁マデモ恋テ含墨ヲ加禰ト名ク。即チ雁音也。倭国ニ是ヲ伝ト云々(和人分別ナルベシ)。私案云。女は陰也、故ニ黒ヲ彰ス。彰所ハ仏法ニ手印歯印形印ト云コトアリ。体ニ墨スルコトアリ。手亦然ナリ(一往男女ノ差別ノ為ナリ)。
[#ここで字下げ終わり]
 これはおそらく琉球婦人の黥のことが、日本の文献に現れた最古のもので、琉球語ハヅキの語原について語る最初のものであろう。
 試みに、それが支那の文献にどう見えているかを調べてみよう。隋史の琉求伝には、「夫人以墨黥手、為虫蛇之文」とある。この琉求が沖縄島のことであるか、それとも台湾のことであるかは、久しく学界で論議されたところで、先年、白鳥博士は「夷州及び亶州に就いて」という論文で、それが台湾であると断ぜられたが、でも博士は西暦七世紀前に琉球人が盛んに台湾と交通していたことを述べられ、リース博士もその頃琉球諸島から台湾に植民したものがあったといわれたから、琉求伝中の黥は、よし琉球人のそれではないとしても、琉球人のそれと何等かの関係を有するものに違いない。
 『明史』の琉球伝には黥のことは見えていないが、『大明一統志』の琉球国の条には「黥手」とあって、「婦人以墨黥手。為飛蛇文」と注がしてある。この書は明の天順五年に編纂されたもので、明の洪武五年以来支那琉球間の交通はようやく盛んになって、この時までに七回も冊封使《さっぽうし》を派遣し、また琉球の官生《かんしょう》等も国子監《こくしかん》に入学していたので、支那人には琉球の風俗習慣はかなりよくわかっていたはずだから、黥に関する『一統志』の記事が『隋書』の縁引でないことはいうまでもない。
 それから十三年もたって、明の成化十五年に、朝鮮済州島の人数名が、与那国《よなぐに》島に漂流し、一年有半もかかって、西表《いりおもて》・波照間《はてるま》・新城《あらぐすく》・黒島《くろしま》・多良間《たらま》・伊良部《いらぶ》・宮古《みやこ》・沖縄を経由して帰国したが、彼等の見聞談を朝鮮の史官が書き取ったのが『李朝《りちょう》実録《じつろく》』中に載っている。それには南島の風俗・習慣・動植物等のことが詳しく出ているに拘らず、黥のことが少しも出ていない。自国にない風習だから、特に目につきそうなものだが、それについて語っていないのはいささか変である。たった一つの島の場合ならともかく、九ツの島のことを順序を立てて、くどいと思われるほど詳細に物語っているから、その間には忘れていたのも思い出しそうなものだがこれを落したのはどうしたわけか。
 明の嘉靖十一年、琉球に使いした明人|陳侃《ちんかん》の『使琉球録』は『大明一統志』の文句を引用し「婦人以墨黥手、為飛虎[#「虎」に傍点]文」と記し、さらに「其婦人真[#「真」に白丸傍点]以墨黥、花草鳥獣之形」と附加えているが、これは『一統志』にもそう見えているが、来てまのあたり見るとなるほどそうだということである。これはじつに朝鮮人が漂流した時から六十年後のことで、『一統志』の記事が信用出来ないとすれば、この風習は、この六十年間に始まったとも見られる。

   三

[#図版(03.png)、ボルネオ サモア島(ハンブリー氏による)]

[#図版(04.png)、黥の分布図(ハンブリー氏による)]

 Edmund M. H. Simon 博士の "〔Beitra:ge〕 zur Kenntnis der Riukiu Inseln. " Leipzig 1913.(一三六頁―一四六頁)に出ている沖縄諸島および奄美大島諸島の婦人の黥と W. D. Hambly 氏の "The History of Tattooing and its Significance. " London 1925(二六〇頁)中に出ているサモア島婦人の黥とを比較してみた人は、両者の間に著しい類似点の存するのを見たであろう。そして後者中の、
[#ここから2字下げ]
The Maltese cross design (page 256) is notable for its exactness of outline, and still more remarkable for its persistence as an ornamental for women of the Liu Kiu Islands. In the "Cruise of the Marchesa, " M. Guillemard mentions visiting the Riu Kiu Islands in 1883, and noting that the cross was a favourite design, also that the marks on the Phalanges varied in extent with the age of the individual. The entire hand tattoo is not completed until marriage. M. Guillemard states that the design he noticed in 1883 is exactly described in Beechey's "Narrative of a Voyage in the Pacific" 1827.
[#ここで字下げ終わり]
という説明を見たら、思い半ばに過ぐるものがあろう。琉球人が元時代に南洋と通商していたことは、藤田博士の「琉求人南洋通商の最古の記録」という論文を見ても明らかであるが、彼等の南洋通商は明初支那と正式の交通を開始して以来、一層盛んになったから、彼等はサモアもしくはボルネオ辺で自分等の黥に酷似したものを目撃して驚いたに違いない。書名はちよっと[#「ちよっと」は底本のまま]思い出せないが、琉球の文献に昔の航海者が南洋のある島で婦人の黥の奇麗なのを見て来て、それを自分の妻女に真似させたのが始まりで、漸次全群島に伝播した、といったようなことが見えているのは、そんなところから出来た伝承のように思われる。「移中華之風易此土之俗」に腐心して、日もこれ足らなかった琉球王国の盛時に、こうした蛮風をことさらに真似たはずがないから、これは遼遠の昔、南島人の文化の程度の低かった頃、ポリネシア人やインドネシア人などと隣接しもしくは交渉したことでもあって、彼等の影響を受けたか、彼等に影響を及ぼしたか、とにかくそういったようなことがあったにちがいない。魏史の倭人伝を見ると、この風習は当時九州地方にもあったようだから、これはひとり南島の問題ではないような気がする。日本語とオーストロアジヤティク語との関係が云々されている今日、南島の黥と南洋のそれとの比較研究もまた起らなければなるまい。

[#図版(05.png)、琉球・アイヌ・南洋の黥比較図]

   四

 諸図で示した沖縄・大島・徳之島・宮古・八重山五島の黥を一瞥すると、島ごとに著しい特徴を発揮していることが知れるが、相互の間に根本的一致の存するところが見られる。なかんずく前の三者では、それぞれ年取るにつれて、線を太くしたり、一定の年齢に達して新たに特殊の紋様を増加したりすることはあっても、その形式は根本的に同一である。この図だけで見ると、後の二者でも同様だが、このほかにもなおいくつかの形式のあることを知らなければならぬ。これは笹森儀助氏の『南島探験』(明治二十七年出版)に、左のごとき記事があるのでもわかる。
[#ここから2字下げ]
此ノ黥ハ宮古婦人ノ手ヲ写シタルモノニシテ、先島ノ黥ハ一定セズ各人自由ニスルナリ。故ニ二人ヲ見レバ甲[#図版(06.png)]ノ類多クシテ、乙ハ×ノ類ノ多キガ如キ各々異ナレリ。然レドモ首里那覇其他各間切ハ之ト異ナリ一定ノ模様アリ。人々異ナル等ノ事ナシ。当時ノ入墨ハ何レノ時代ヨリ始マリシヤハ知ルニ由ナシ。然レドモ恐ラクハ那覇ニ交通セシ後ナラン。何トナラバ之ヲ男ノ元服ニ対シテ女ノ元服ト云ヘリ。故ニ該入墨モ男ノ元服ト同時代ヨリ始マリシナラント思フ。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一、入墨ハ拾一歳拾三歳ノ時之ヲナス。又男ノ元服スルト同ジ。
一、竹ノ葉ハ竹ノ如キ真直ナル心ヲ有センガ為メナリト云フ。
一、十文字ハ織物ヲ上手ニナラン為メカシギ[#「カシギ」に傍点]モ同ジ。
一、高膳ハ当地ハ中等以上ハ凡テ美シキ高膳ニ食スル風アリ。故ニ後日上等ノ人トナランヲ祈リテナリ。箸[#「箸」に傍点]及ビ握リ飯[#「握リ飯」に傍点]モ同ジ意味ニ取リタルナリ。
一、鋏ハ機又縫物ヲ上手ニナラントノ意。
一、鳥ノ足裏ハ不明。
[#ここで字下げ終わり]
 他の四島の紋様にもいちいち名称と意義とがあるようだが、聞いておくのを忘れた。ただ宮古の竹[#「竹」に傍点]が沖縄では矢[#「矢」に傍点]になっていて、いったん嫁した以上は帰って来ない象徴にされていることだけは確かである。このほか宮古の高膳[#図版(07.png)]に相当する[#図版(08.png)]はビーマーといって、着物の模様の名から来たものであるが、八重山でもやっぱり 〔bi:: ma〕 といっている。これは大島・徳之島のにもあるが、何と呼ばれているかわからない。ここで具体的に説明することは出来ないが、南島の黥も、一時に完成されるのではなく、年齢とともに完成されて行くことだけは断言しても差支えない。
 四、五年前、鬼界《きかい》島を訪れた時、その婦人の黥が十人十色で、技術者により、部落により、家筋により、個人によって、趣きを異にしているのを見聞して、面白いと思った。これらの紋様は『加無波良《かんばら》夜譚《よばなし》』の著者岩倉市郎君の採集に待つことにして、ここには買い物をしていた老婆の黥をこっそり写生した一、二の例を挙げるにどどめておくが、銛や、やどかりの模様などを観たことも附記しておく。鬼界島や宮古八重山の例から類推すると、他の島々のもかつて部落または家筋によって異なっていたものが、各島が政治的に統一された後、その統治者の家のに統一されて、同一形式のものになり、各島が琉球王に統一された後、さらに首里の影響を受けたように思われる。鬼界島でも沖縄諸島同様に、黥は一時代前に禁ぜられて、今日では六十歳以上の老婆でなければ見られないから、今のうちに採集しておく必要がある。

[#図版(09.png)、上:宮古(『南島探験』による) 中:鬼界島 下:首里・那覇の少女]

   五

 南島の黥もやはり宗教的意義を有していたようである。琉球の漢詩人|喜舎場《きしゃば》朝賢《ちょうけん》翁の『続東汀随筆』にこういうことが見えている。
[#ここから2字下げ]
女子既に人に嫁すれば、即ち左右の手指表面に墨黥す。之を波津幾《はづき》と言ふ。鍼衝《はりつき》の中略なり。婦女最も愛好す。若し久しく白指なる者は、※[#「女+由」、U+59AF]※[#「女+里」、第4水準2-5-56]之を笑ふ。故に、二十一、二を過ぎて墨黥せざる者なし。隋書流求伝に、婦人手に墨黥して梅花の形を為すと。上古の遺風なり。既に黥して数年を経れば、墨色淡薄になる。再び黥して新鮮ならしむ。既に黥して五、六回に及ぶときは終身淡薄になる憂ひなし。置県の今日に至り、人身墨黥するを許さゞる法律を発せらる。若之を犯し及び之を業と為す者あらば、捕へられて処刑せらるゝに付き、終に其悪弊を止めたり。
[#ここで字下げ終わり]
 初めて黥する時は、閑静な別荘などを借り、親戚縁者を招待して、御馳走しながら行ったものであるが、この時十二、三歳位の少女達は、図のごとき黥をして貰い、黥の色のあせた人達もその上に黥をして貰うのであった。歌などを謡っていたところから見ると、古くはオモロなどを謡って、宗教的儀式を行っていたことが推測される。すでに嫁した者が黥をしないうちに死ぬことがあったら、そのままであの世に行くと、葦の芋を掘らせられる[#「葦の芋を掘らせられる」に傍点]というので、手の甲にその紋様を画いてやって、野辺送りをすることになっていた。ついでにいうが、葦の芋を掘ることは、あの世での最も苦しい労働だと信じられている。
 清の康熙五十八年に琉球を訪れた冊封副使|徐葆光《じょほこう》は、その『中山伝信録』中に、婦人の黥についてこう記している。
[#ここから2字下げ]
手背皆有点。五指脊上。黒道直貫至甲辺。腕上下或方或円或※[#「髟/左/月」、第4水準2-93-23]。為形不等。不尽如梅花也。女子年十五。即針刺以墨塗之。歳歳増加。官戸皆然。聞先国王曾欲変革。集衆議。以為古初如此。或深意有所禁忌。驟改前制不便。遂至今仍之。過市所見。無不尽蔵。
[#ここで字下げ終わり]
 かつて廃止しようと試みたが、因襲の久しき、どうにもすることが出来なかったらしい。それから四十四年もたって、わが宝暦十二年の夏に、琉球国の楷船《かいせん》(薩摩に貢物を積んで行く船)が土佐の大島に漂流した時、土佐の学者の戸部良熙が、琉蔵役の潮平《シュンジャ》親雲上《ペーチン》に琉球の事情を聞いて、『大島筆記』を物したが、その中にも琉球婦人の黥に関することが見えている。戸部氏は「女子ハ歯ヲ染ルコトナシ。島女ハ手ノ甲ニ入レボクロヲスル由也。通考ナドニ文身ノ事アルハコレ故ニヤ。本琉球ノ女顔手ナドニ何ゾ彩ヲスルニヤト問シカド、左様ノ事ハ無キ由云ヘリ」といって、「良熙謂、伝信録ニ琉球女ノ手ノ甲ニ色々イレズミスル事分明ニ記セリ。前代国王ノ中ニモコノ事ヲ厭ヒ止メントセシ事ナドアリシ由カケレバ、今ニ琉人カクセルモ知ルベカラズ。又ハ問ヒ様キコヘザリシニヤ。薩摩ノ士島女ノ手甲ノ入レズミタシカニ見タリシ由ヲ伝へ聞クニ、伝信録ニ記セル通リ也」と注している。海外に使いした昔の琉球人が、この奇風を聞かれて閉口したことが、よくこの中に現れている。終りに、開化せる現代の南島人のある者は、宗教的意義を有《も》つこの装飾のかつて存在したことを人に知られるさえ苦痛とし、引いてその過去のいっさいの文化を詛《のろ》うまでに、民族的卑下心の持主になっていることを附記しておく。
(完)



底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:「琉球婦人の黥」『日本地理風俗大系 第十二巻』新光社
   1930(昭和5)年3月28日
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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琉球女人の被服

伊波普猷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訛《なま》っている

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)藩士|名越《なごや》左源太《さげんた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)[#図版(01.png)、第一図 近代琉球人の礼服(『琉球古今記』より)]

 [#…]:返り点
 (例)女性之恥辱を不顧自由ケ間敷体不[#レ]宜候間
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 古琉球女人の被服は、近頃画家などによって紹介される近代琉球婦人のそれ(第一図)とはかなり異なるものであった。だいたい朝鮮わけても高句麗のそれに似て上下の二部に分れ、上衣には「どぎぬ」(上体の衣の義、今はドジンと訛《なま》っている)といい、下裳には「かかも」(カカムに転じ、カカンと訛った。八重山《やえやま》ではカームといい、大島ではカンという、モは裳の義だが、カカの義はわからない。釣るして垂れる義の懸ると関係があるか)といったが、徳川時代の中期頃に編纂されたと思われる、『江戸立之時仰渡並応答之条々之写』中に出ている琉球婦人之図(第二図)は、その頃の上流社会の女人の服装を示すものと見てよい。
 嘉永安政頃、薩摩の藩士|名越《なごや》左源太《さげんた》が大島|謫居《たっきょ》中に物した『南島雑話』には、当時大島にいた琉球遊女の図が出ているがこれによって遊女の服装が知れるのみならず、一般女人のそれをも推知するに難くない。

[#図版(01.png)、第一図 近代琉球人の礼服(『琉球古今記』より)]
[#ここから第一図のキャプション]
首里・那覇の婦人等は、男子の海外へ旅立ちした日、その家に集り来たり、手拍子や鼓に合わせて、「旅ぐわいにや」を謡いつつ、輪になって踊って、これを祝福したが、この風習は日露戦役の頃まで行われていた。古くは畳をかたづけて、床の上で踊ったので、いたとどろ(板轟)といった。
[#第一図のキャプションここまで]

[#図版(02.png)、第二図 寛永頃の琉球婦人(『江戸立之時仰渡並応答之条々之写』より)]

[#図版(03.png)、第三図 嘉永安政頃の琉球の遊女(『南島雑話』より)]

 琉球最後の国王|尚泰《しょうたい》の近侍で、漢詩人であった喜舎場《きしゃば》朝賢《ちょうけん》翁の『東汀《とうてい》随筆』(大正元年十一月稿)第二巻国人男女衣帯の事の中に、こういうことが見えている。
[#ここから2字下げ]
昔は婦人女子皆|胴衣裙《ドヂンカヽン》を着て居り、門を出るには必ず単衣《チーヂン》(冬)たなし(夏)を上衣と為す。中山伝信録に当時の風俗を悉く図面にあらはせるが、老幼の婦女悉く胴衣裙を着たり。伝信録は今を距る二百年位前の冊封使徐葆光の著す所なり。今を距る百年前迄は、婦女皆胴衣裙の装束にて、袴(さるまたのゆつくりしたもので、膝の下に至るものに云ふ)を着たるものなし。婦女の袴を着たるは娼妓より始ると云ふ。当時娼児(小女郎の事)等酔漢の為に弄悩《わにやく》せられ、抱き持して逆さまになし、下体を尽く赤裸となし笑ひ弄ぶより、之を防ぐ為に、裙に代るに袴を以てしたり。此より始りて首里那覇の婦女に及びたりと云ふ。今は女子婚礼の時のみに胴衣裙の装束を為す。蓋し古風に因るものなり。唯御城女性のみは、壮年のもの冬至元日等の大礼尽く胴衣裙の装束を為せり。年長のものは、袷衣《わたぢん》(冬)たなし(夏)を上衣とす。下衣は必ずしも胴衣裙にあらず。
[#ここで字下げ終わり]
 これは琉球女人の被服の変遷を簡単に物語るものだが、祭礼以外にも、胴衣裙《どぢんかかん》のつい近代まで特殊の階級に行われていたことには、いたって確実な証拠がある。薩摩の在番奉行所から茶帳という免許状を交付されて、茶の販売にたずさわっていた私の祖母も、商用で外出する時には、いつもこれを着ていた、と父の叔母から聞かされたが、この特権を得たのは、安政十一年[#「安政十一年」は底本のまま]の三月六日祖父が大和《やまと》横目《よこめ》職に任ぜられた頃で、その在職の三年二カ月間は、これを有していたわけだから(この制度の説明は他の機会に譲る)この風俗は御維新の直前まで遺っていたと見て差支えなかろう。しかも今日の沖縄県人中、これを知っている者はいたって少ないようだ。

[#図版(04.png)、第四図 那覇の市場(『中山伝信録』より)]
[#図版(05.png)、第五図 板舞(『中山伝信録』より)]
[#図版(06.png)、第六図 機を織る女(『中山伝信録』より)]

 由来風俗の変遷はいたって徐々であるために、記録者の注意を惹かない場合が多く、いつしかその過程など全然忘れられて、変り果てた状態が昔ながらのもののように考えられがちだが、とにかくこれを目撃した人から私の聞いたこの実話はこうして忘れられた事実の、たまたま伝えられた一例で、風俗史の資料として決して文献に劣るものではない。引用した『東汀随筆』の記事中にも触れてある通り、『中山《ちゅうざん》伝信録《でんしんろく》』第六巻には、板舞図(第五図)と女集図(第四図)とが出ているが、遊戯をしている少女も、市場に集っている婦人もおおかた「どぢんかかん」をつけている。ただし、女集図中に「どぎぬ」の代りに絣の長い上衣を着けたのが見出され、なおそれが同書中の機具の図(第六図)にも見出されて、機上の女の上衣には、上前の襟を右脇に引廻して、紐で結んだところが窺われるが、これなどは近代の被服にまで発達する過程の一端を仄かすものである。『伝信録』の著者|徐葆光《じょほこう》は、清の康熙五十八年(わが享保四年)、琉球国王|尚敬《しょうけい》を冊封するために渡島した副使で、八カ月間も滞在してこの報告書を物したのだから、その書名の示すごとく、信を伝えていると見て差支えなかろう。
 当時は琉球の文芸復興期ともいうべき時代で、冊封使宴席の興を助けしめるために、玉城《たまぐすく》朝薫《ちょうくん》に命じて始めて組踊《くみおどり》と称する楽劇を創作させたが、例の女人の服装はこうした演劇の着付にも反映している。その時のテキストは伝えられていないが、これを踏襲して冊封使渡来ごとに使用した現存する二、三種のテキスト中の着付との比較によってだいたいは窺い知ることが出来る。すなわち「銘苅子《めかるしい》」(羽衣)の着付には「天女、垂髪、紫長巾(ひれ)、作花並金銀水引、熨斗紙差天冠、琉縫薄衣裳、飛衣、緋|紗綾《さや》足袋、金銀薄磨之柄杓持、娘、髪作花差、巾垂、時服|胴衣《どぎぬ》、裏緋紗綾、ひざ[#「ひざ」に傍点](襞)取裙《とりかゝむ》、緋さや足袋」と見え、「孝行之巻」のそれには、「姉(娘)、垂髪、紫長巾、作花差、時服胴衣裏緋さや、ひざ取かゝむ、緋さや足袋、手籠持出る、但蛇祭之時、髪白巾、白紗綾衣裳。母、垂髪、紫長巾、琉縫薄衣裳、緋さや足袋云々」と出ている。なおこの劇作家と同時代の画家|殷元良《いんげんりょう》によって画かれた、天女が子らに別れて、昇天する彩色画の、銘苅子の説話に因んで建てられた銘苅御殿の小祠に安置されたもの(古惚けて不鮮明になったのが、明治八年に島袋という画家に模写させて、取りかえたという)の服装に似通っているのは注目に値すべく、しかも後者では天女の上衣がかなり短かいので、白い下裳がおぼろげに見える。娘の「どぎぬかかも」の装束はややはっきり見える。
 これより半世紀もたって、土佐の学者戸部良熙の手になった『大島筆記』という書(宝暦十二年薩摩へ上る琉球の楷船《かいせん》が、大風に逢って土佐の大島に漂着した時、琉球の事情を潮平親雲上に根掘り葉掘りきいて採録したもの)の琉球の人物風俗の条衣服の項にも、「女は胴衣を着る。紐括り也。諸方紐にてしむる。足肌の袴も着るなり。上衣を打掛に着る。帯なし。上着のつまを深く引違へ居る也。緋色は幼年の時着る。已に嫁しては青黄などを着る也。上官の婦人他所へ出るには轎にのる。乗ざる時は上着の上へ又衣を頭よりかづく也(注、日本のかつぎのごとし)。女小姓両脇に二人、前に一人、是身を離れざる也」と出ている。ただし「かつぎ」はその以前から廃れつつあったと見えて、寛保二年十一月寺社座から那覇横目に達せられたものに、
[#ここから2字下げ]
市へ出候士女共、銀之簪差、衣裳共結構に仕出候方茂有之、見分不宜笑止千万に候。往古者士之女共、市立不仕候而不叶砌は、衣をかぶり罷出候処、頃日猥に罷成、女性之恥辱を不顧自由ケ間敷体不[#レ]宜候間、跡々之様に衣をかぶり可[#二]罷出[#一]候。若違犯之者於[#レ]有[#レ]之者、科銭二十貫文可[#二]申付[#一]候。(『親見世旧記』)
[#ここで字下げ終わり]
ということが見えているが、比較的近代までこの風習の行われていたことを知っているものがまったくない。このいでたちも画家などが筆にしないうちに、いつの間にか影を隠して伝えられなくなった一例だが、一時代前まで嫁入りの時に花嫁が紺の生芭蕉《なまばしょう》の上衣を被ったり、葬式の時に身内の女が白の生芭蕉の上衣を被ったりして、謹慎を表したのは、おそらくその祭礼に保存されたものであろう。この「かつぎ」の風習の四、五百年前から外国の採訪者に注意されていたことについては後に言う。同『筆記』にはまた「上官の女には冠服各段の制ありて、冠瓔珞さがり、服は五重《いつかさね》なる也」とも見えている。那覇や久米などには嫁入りの翌朝、昼戻《ひるもど》りと称し、親戚朋友にかしずかれて、里に帰る儀式があったが、その時花嫁は白の下裳《かかも》の上に、下から上へたぶん白緑青紅黄の順序で、しかも一寸五分位ずつ短くなった五重ねの上衣《どぎぬ》を着けて、その上には例の「かつぎ」を被っていたように覚えている。
 以上、文献や口碑によって、数十年前まで首里・那覇の女人の平常でも「どぎぬかかも」を着ていたことを知ったが、これはまた俚歌童謡によって裏づけられる。子供の時に私達の謡った童謡に、
[#ここから2字下げ]
彼方《あま》からめんしェる美《ちゆ》ら嬢小《あやぐわ》、どぢんの緒《をう》にも総《ふさ》つけて、かかんの緒にも総つけて、うちはういはうい歩《あゆ》ち召《め》しェーさ。
[#ここで字下げ終わり]
というのがあったが、民謡にも、
[#ここから2字下げ]
胴衣《どぢん》汗絞《あせしぼ》て、下裳裾《かゝんすそ》濡らち、遊びゆたる我身《わみ》もおとな成《な》たさ。
[#ここで字下げ終わり]
というのがある。ふだん「どぢんかかん」を着てなかったら、こういうものの作られたはずがない。なおこれを方処的《ほうしょてき》に考察する必要もあろう。宮古八重山諸島にも、祭礼の時、女人の「どぢんかかん」を着ける風習は明治の後期頃まで遺っていたが、ことによると未だに見られるかもしれない。明治四十年の春八重山に民俗採集にいった時、たまたま宮良《みやら》の小学校の卒業式に列席して、来賓中の婦人たちが、一人も残らず第七図のような「どぢんかかん」を纏《まと》うているのを目撃したが、上衣が長過ぎて下裳は容易に見えなかった。あとで宮古島のも同様であることを知った。
 因《ちなみ》にいう、この被服の全盛時代にいわゆるハカマ(ズロース)を着けていなかったことについては前に触れておいたが、その遺風が離島などでは一時代前まで見られた。大正二年の夏、初めて久米島を訪れた時、島の女にハカマを着けない者のかなり多いのを見て、古俗のこの孤島に保存されていることを知った。大島諸島には、大正七年から昭和四年までに三度も採訪したが、ここにはこの古俗のひとしお忠実に保存されていることを知った。いわゆるハカマの流行しなかったずっと以前に、沖縄の管轄を離れたところだから、件《くだん》の事実があっても、別に怪しむに足らない。二十年前郷里の新聞に出た津堅《つけん》島の青年会の決議事項中に、この島の若い女が昼労働する時にはハカマを着けないで、夜遊びに出かける時だけこれを着けるのは不条理だから、以後常住着けるように、ということがあったのを見ても、その近代の発達であることは、推測するに難くあるまい。これを花柳界から始ったという伝承と照合せると、性に関する問題にも触れるがここには贅しない。
 ついでに首里の女のハカマについて一言しておこう。その上流社会のは、右の方には下裳《かかも》のごとく特に襞がついていて、かなり広くなっているので、小用などそこから便ずるようになっているが、もしかしたらこれは下裳がハカマになるまでの過程を示すものであるかもしれない。その平民の女の着るものにも、腰巻の後方の裾の端を取って、股をくぐらせ、臍《へそ》のあたりで布の両端を結んだところに差込む式のが稀に見出されるが、これなどもたぶん下裳の変形したものであろう。一言附加えておくが、首里・那覇の婦人は、月経時にハカマの下に越中|褌《ふんどし》の恰好をした紺の褌を、さきの方をうしろに廻して、着けるようになっていた。これにはメーチャーといい、マヘハキャーの転で、前佩すなわち陰部につける物の義があるが、田舎や離島などの女には、ハカマの代りにふだんでもこれを使用する者が多い。芭蕉布で仕立てたすけて見える着物をつけるところで、上衣《どぎぬ》下裳《かかも》の廃れるにつれて、ハカマやメーチャーなどの進出したのは、けだし当然なことである。前掲『南島雑話』に御印加那志《おいんがなし》の図(第八図)が出ているが、御印加那志は首里之印の捺した辞令書を有《も》っている神女のことで、ノロクメ(祝女《のろ》くもい)の頭にいう。今一つ阿良不利《あらふり》の図(第九図)が出ているが、阿良不利は新触すなわち初めて神の霊に触れる処女の義で、島の女は一度はこうして神に仕えなければならなかったらしい。いずれも上衣《どぎぬ》下裳《かかも》を着けているが、別に裙《かかん》の図があり、それにはカンといい、四十八の襞があるので、俗に四十八襞ともいう、と説明が加えてある。祝女の装束の沖縄のそれ(第十一図)に比較してひとしお古風であるのは、たぶん沖縄では慶長十四年の島津氏の琉球入り以後、制度の変遷につれて、神人の服装にも変遷があったに拘らず、じらい母国との連絡が断たれて、これを知らなかった大島諸島では、分離当時ののを墨守して、固定させたためであろう(拙著『をなり神の島』所収「鬼界雑記」中、祝女《のろ》の服装《しゆがり》の項参照)。

[#図版(07.png)、第七図]〔割愛〕
[#図版(08.png)、第八図]
第八図 右:御印加那志の図 「ノロクメの頭を御印ガナシという」(『南島雑話』より)
[#図版(09.png)、第九図]
第九図 左上:阿良不利 「十二歳より十五歳まで願う時二人の娘アラフリをする事也祭服家々蔵むノロクメにはあらず」(『南島雑話』より)
[#図版(10.png)、第十図]
第十図 左下:裙 「島の詞にカンという四十八の襞ありゆえに俗名四十八襞という上品〔なる〕は紗綾下品〔なる〕は木綿」(『南島雑話』より)

 とにかくこうして孤立した同列島は、琉球の民俗や言語などで、慶長以前からあったか、その後に発達したかを見わける目安になるから、「どぎぬかかも」の近代の発達でないことは言うまでもなく、これより半世紀前、すなわち明の嘉靖十一年(わが天文元年)に、渡琉した冊封使|陳侃《ちんかん》の『使琉球記』[#「記」は底本のまま]中にも、婦人の服装について、「上衣之外、更用[#二]幅如[#一レ]帷。蒙[#二]之背上[#一]。見[#レ]人則以[#レ]手下[#レ]之。而蔽[#二]其面[#一]。下裳如[#レ]裙。而倍[#二]其幅[#一]。褶細而制長。覆[#二]其足[#一]也。其貴家大族之妻。出入則戴[#二]※[#「竹/若」、U+7BAC]笠[#一]。坐[#二]於馬上[#一]。女僕三四従[#レ]之。但無[#二]布帽毛衣螺佩之飾[#一]」と記してある。上衣下裳のほかに「かつぎ」を被る風習のすでに行われていたことが知れる。それは陳侃と同じ頃に、琉球を見ていった朝鮮人の『琉球風土記』にも、「女冠如[#二]本国円筐子[#一]。人不[#レ]得[#レ]見[#二]其面[#一]。唯命婦戴[#レ]之。其余用所著衣蔽[#レ]面而行」と見えている。この「かつぎ」は、近代まで行われていた婚礼や葬礼の時のものから推すと、「どぎぬ」とは制を異にして、和服に近くなっていたらしいから、たぶんは室町時代の被服の影響を受けて発達したもので、「かつぎ」の廃れた後、第一図のごとく「どぎぬかかも」の上から羽織るようになって、近代の札服にまで発達したと思われる。
 それから半世紀遡って、明の成化十三年(わが文明九年)に、朝鮮の済州島の人民が、琉球群島の西南端の与那国《よなぐに》島に漂流し、八重山および宮古の島々を経て、沖縄に送られたことがあり、その見聞談が『李朝《りちょう》実録《じつろく》』に採録されているが、各島の風俗習慣動植物の事が詳細を極めている。取りわけ与那国島の被服の事については、「その俗、冠帯が無い。暑い時分には椶葉で笠のやうなものを作るが、朝鮮の僧侶の笠に似てゐる。麻や木綿が無い。蚕も養はない。唯苧(からむし)を織つて布と為すのみだ。衣を作るには直領のやうにして、領《えり》と襞積《ひだ》とが無く、袖は短くて闊い。藍青が染めてある。中裙《はだぎ》には三幅の白布を用ゐ、引きまはして臀の辺で結ぶ。婦人の服も亦同様だが、内から裳を著けて、中裙《はだぎ》が無い。裳にも亦青が染めてある」といったように記してある。それから西表《いりおもて》、波照間《はてるま》、黒島《くろしま》、多良間《たらま》、伊良部《いらぶ》、宮古《みやこ》の項でも、被服についてはいずれも与那国と同様だとしてあるから、この男子衣褌、女子衣裳の風習は、南島一般に行われたと見てよい。なお沖縄本島では、曲玉は神女が祭祀の時だけはき、脚結《あゆい》はその北部地方で祭祀の時だけやるのに、右の記事中にはこれらの島々では二つながら不断《ふだん》一般に用いていると見えてあるが、これらは右の服装とともに、日本上世の埴輪《はにわ》に現れた偶像の服装を聯想させるものである。男女とも帯を用いず、上衣の上前を引きまわして、臂《ひじ》の辺で結ぶ、と見えているのも注目すべく、この古俗の女人の被服にのみ保存されて現在に至った理由については最後に触れる。
 琉球国の項には、「男女とも頭上に椎髻をして、帛を以て之を裹《つつ》んでゐる。庶民は皆白苧の衣を著けてゐる。婦人は脳後に椎髻をしてゐる。そして皆白苧布の衫と白苧布の裳とを著けてゐる。貴人は綵段を著けてゐるが、襦襖や児襦の裳もある。守令は斑染※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]で髻を裹んでゐるが、白細苧布の衣を纏うて、紅染の帛を帯にし、外出する時には、馬に跨つて、従者が数人もついて行く」と見えている。そこ(那覇)には唐の商人や江南人や南蛮人も来て商館を開き、市場では綵段《さいたん》、※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]帛《かいはく》、苧布、生苧、南蛮国|斑※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]《はんかい》、斑※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]布、黒綿布、唐青白綿布等を売っている、と見えているが、神歌おもろに、「唐南蛮《たうなばん》寄合ふなはどまり」と歌われたごとくこの頃その海外貿易はひとしお頻繁となり、件の文化品が夥しく輸入されて、その服装にかなりの影響を及ぼしたことが知れる。そして南島文化の中心から漸次「上下《かみしも》、地《ぢ》はなれ」(田舎および属島)に伝播したことは、この時代の神歌中に北部地方の神女の首里王府から「絵がき御羽《みはね》」を交付されることを歌ったのがあるのを見ても知れよう。これには胡蝶形《はべるがた》または蜻蛉《あけづ》御衣《みそ》ともいって、いまだに所々に保存されているが、私はかつて久高《くだか》島の外間《ほかま》祝女《のろ》の家で白地の絹布に花鳥の絵のかいたものを見たことがある。第十二図のごときもその一例と見てよいが、久高島のは第十一図のごとく袖がずっとひろくなっている。

[#図版(11.png)、第一一図]〔割愛〕
[#図版(12.png)、第十二図 絵がきみはね(右)]
[#図版(13.png)、第十三図 ウシンチー姿の遊女(左)]

 思うに、南蛮更紗や京形などを模倣して、紅型《びんがた》あるいは型付と称する琉球更紗(第一図参照)の、発生したのはこれらの舶来品の輸入されてからずっと後のことで(拙著『をなり神の島』所収「琉球更紗の発生」参照)、高価な舶来品は主として特殊階級に用いられ、「上下、地はなれ」の神女などには、代用品の絵がきみはねが交付されたであろう。おそらく絵がきみはねは後に形付衣装の同義語にもなったに違いない。国頭《くにがみ》郡の辺戸《へど》祝女や大宜味城《おおぎみぐすく》祝女が、祭式の時には白地の神羽《かんばね》を着けて、式が済んで祭式舞踊に移ると、替衣裳と称して、紅型の衣裳に着かえるのは、伝統を尊ぶ精神の現れである。
 『混効験集《こんこうけんしゅう》』(古代琉球語の辞書)の衣服の条に、「ひらぬき、真苧布又は績《うみ》ばせを、紺に染め、裏を付る袷也、昔は女性正式の衣とす」とあり、また「ちやうぎぬ、朝衣也、三司官以下束帯の時用之」「あふばせをむしよ、青芭蕉御衣也、按司部《あじべ》束帯の時着給ふ、四時用之」とあるが、いずれも生芭蕉《なまばしょう》で製したもので、夏冬の別なくこれを用いたことが知れる。面白いことには、祭礼の時に舶来の絹や木綿などの衣の上からこれを著けることになっているが、これも等しく古俗を遵守する精神の現れで、南島被服史の好資材である。
 なおここで注意すべきは、男子の被服が早くも和服化して、帯が著しく発達したに拘らず、女子のそれにはかなり古式が保存されて、帯のほとんど発生しなかったことで、これは古来その保守的な女人が専ら祭祀に掌《つかさど》ったためであるが、気候風土などの影響も多分に手伝っていると思う。下裳《かかも》から派出したハカマには緒は着かないで、これを細帯でしめるようになっているが、上衣《どぎぬ》の上から羽織る「ひらぬき」もしくは「青芭蕉み衣」にはもちろん用いず、与所《よそ》ゆきには、第十三図のごとく、上前を右脇に引きまわして、着物の上からハカマの細帯に差込んで止めるようになっているので、俗にウシンチーと言っている(第一図の鼓を打つ女もウシンチーをしている)。これには押貫き[#「押貫き」に傍点](差込んで止めること)の義がある。屋内で仕事をする時には、紺の兵児帯をしめることがあるが、そのままでは来客に接しないことになっている。遊女は何でも流行の尖端を切るもので、博多帯なども用いるようになったが、しかし一般に流行するには至らなかった。というのは、帯がその気候風土に適しないからである。
 以上、琉球の被服史を略述したが、これは日本建国の頃九州方面より南漸して、久しく氏族制度を維持していた海人部の一支族が、院政時代以降時をおいて東北より南下した侵入者と接触した結果、いわゆる琉球文化の発生を見たという卑説(拙著『日本文化の南漸』および『沖縄考』参照)に、一証左を加えるものである。終りに、その明治以後の変遷に触れて、結末をつけよう。
 そこでは、日清戦争後男子の断髪が増加するにつれて、その服装も漸次日本化したに拘らず、女子の和装の流行し出したのは、日露戦争後であるが、古来帯を用いなかった琉球婦人が、幅の広い帯を使用するようになったのは、衣生活史上の大事件であった。全国の同性と調子を合すのはやむを得ないとしても、あんな常夏の国で朝から晩まで汗だくになって喘《あえ》いでいるのは、災難というのほかはない。それから最近モンペが流行し、野良仕事などもそれをつけてやらなければならないようになっているが、これまた帯同様に耐えられないものであろう。
 とにかく本邦が寒帯から熱帯に跨っている限り、どの地方にも適するという被服を制定することは困難であろうが、なるべく伝説に即して、清楚でしかも実用的な、女子の被服を考案して頂きたいものである。それが出来上ったら南方の同胞もあんな不条理な衣生活から解放されるであろう。
[#地付き](昭和十八年八月八日稿)(元沖縄県立図書館長)



底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『被服』第十四巻第五号
   1943(昭和18)年9月1日
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • [紀伊国] きいのくに (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの)旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。
  • [鹿児島県]
  • 徳之島 とくのしま 鹿児島県奄美諸島の島。面積248平方キロメートル。海岸部は隆起珊瑚礁が発達。アマミノクロウサギの生息地。サトウキビを産する。
  • 大島 おおしま (1) 鹿児島県の奄美諸島中の最大島。通称、奄美大島。面積709平方キロメートル。黒糖・大島紬を産する。 → 奄美諸島
  • 奄美大島諸島 → 奄美諸島
  • 奄美諸島 あまみ しょとう 鹿児島県、大隅諸島・吐�S喇列島とともに薩南諸島の一部をなす諸島。大島を主島とする。海岸には隆起珊瑚礁があり、サトウキビを栽培。奄美群島。
  • 鬼界島 → 鬼界ヶ島か
  • 鬼界ヶ島 きかいがしま (1) 九州南方の諸島の古称。罪人を島流しにした。平家物語(長門本)では、今の薩南諸島から沖縄まで12島。一説に鹿児島県大隅諸島の硫黄島を指し、能楽「俊寛」はこれに従う。(2) 鹿児島県奄美諸島、奄美大島の東方にある島。喜界島。
  • [琉球] りゅうきゅう 沖縄(琉球諸島地域)の別称。古くは「阿児奈波」または「南島」と呼んだ。15世紀統一王国が成立、日本・中国に両属の形をとり、17世紀初頭島津氏に征服され、明治維新後琉球藩を置き、1879年(明治12)沖縄県となる。
  • 三十六島
  • 沖縄島 おきなわじま → 沖縄本島
  • 沖縄本島 おきなわ ほんとう 琉球諸島北東部にある最大の島。北東から南西にのびる狭長な形をなす。南西部の那覇市が中心都市。太平洋戦争末期の激戦地。面積1185平方キロメートル。おきなわじま。
  • [国頭郡] くにがみぐん 沖縄島北部。自然の宝庫として知られる山原は国頭郡にある。行政上島尻郡に属している伊平屋村と伊是名村も国頭郡の一部として扱う場合もある。
  • 辺戸 へど 沖縄県国頭郡国頭村辺戸。沖縄島の最北端(「沖縄県」の最北端は、久米島町の硫黄鳥島)にある。好天の日は、22km離れた奄美諸島の与論島や沖永良部島を望むことができる。沖縄海岸国定公園に含まれる。
  • 大宜味城 おおぎみぐすく
  • 大宜味村 おおぎみそん 沖縄県沖縄本島北部に位置する村で、国頭郡に属している。世界最長寿国である日本国の中でも長寿地域として知られる沖縄県にあって一番の長寿の村。
  • [うるま市]
  • 津堅島 つけんじま 沖縄本島中部与勝半島の南東約5kmの太平洋上に位置する面積1.75平方kmの島。ニンジンの生産が盛んであるため、キャロットアイランドの別名を持つ。2005年4月1日 勝連町がうるま市の一部となり、中頭郡勝連町津堅だった住所表記がうるま市勝連津堅となる。
  • [那覇市]
  • 首里 しゅり 沖縄本島南部の旧都。今、那覇市の東部。もと琉球国王尚氏王城の地。外郭に石垣をめぐらす。
  • 那覇 なは 沖縄本島南西部、東シナ海に面する市。沖縄県の県庁所在地。太平洋戦争中に焦土と化し、戦後米軍の沖縄占領中は軍政府、のちに民政府・琉球政府がおかれた。市の東部、首里には再建した首里城など史跡が多い。人口31万2千。
  • 久米島 くめじま (クメシマとも)沖縄県那覇市の西方100キロメートルにある島。古くは、中国との交易の中継地。久米島紬(古くは琉球紬とも)を産する。
  • [与那原町]
  • 与那原 よなばる 沖縄県の町。沖縄本島で一番、沖縄県で二番目に面積の狭い自治体。中城湾を南城市、西原町と共同で埋め立てを行い、マリンタウン東浜を建設している。町の北側、西原町との境界には運玉森(日本語:ウンタマモリ、沖縄方言:ウンタマムイ)という、小高い丘状の森がある。この森に籠もった義賊、ウンタマギルーの話は沖縄で広く知られ、同名の映画作品は日本映画監督協会新人賞やベルリン国際映画祭カリガリ賞などを受賞した。
  • [南城市]
  • 久高島 くだかじま 沖縄本島知念岬の東海上5.3kmに浮かぶ、周囲8kmの細長い小島。所在は沖縄県南城市、面積は1.37km2、人口は200人強、最大標高は17m。交通は南城市知念安座真港より高速船で15分、フェリーで20分。
  • [島尻郡]
  • ミツ岳 ミツダケ 現、島尻郡与那原町与那原三津武(みちん)御嶽。運玉森の東側中腹にある御嶽。三津嶽。
  • 大和バンタ やまと- ミツ岳の近くにある小高い岡。
  • 外間 (1) 村名。ふかまむら 現、島尻郡知念村久高。久高島にある村で、集落は島の南西部に立地する。もとは一島で一村であったが、集落内の道をもって二分、東部を外間村、西部を久高村としたという。「おもろそうし」に「ほかま」とある。(2) 村名。ふかまむら 現、島尻郡佐敷町。「琉球国由来記」に外間ノロの崇所としてカミヂャナノ嶽(神名ナカモリツカサノ御イベ)があり、年中祭祀としてこの嶽と外間巫火神では年浴、麦初種子・ミヤタネ、三月・八月の四度御物参の祈願、および麦稲穂祭、真謝之殿では稲二祭がおこなわれた。
  • 場天 ばてん → 馬天か?
  • 馬天 ばていん 港名。現、島尻郡佐敷町津波古(つはこ)。中城湾内の南部に位置し、東側に知念半島がある。北に開口する湾入部の西岸にあたる。久高島と結ぶ港湾で、第一尚氏の代より琉球王の久高島行幸や、聞得大君の御新下りに利用された。「琉球王由来記」によれば、上バテンノ嶽などバテンノロの崇所とする嶽々が津波古村に3か所、新里村に4か所みられ、バテン巫火神・バテンノ殿をはじめバテンノロの祭祀も両村に数多い。
  • 銘苅御殿 めかる おどん? 
  • 銘苅家 めかるけ 第二尚氏の始祖である尚円(金丸)の叔父真三良を初代とする。本家は現、島尻郡伊是名村伊是名にある。伊是名島では銘苅殿内と称する。
  • 新城 あらぐすく (1) 村名。現、島尻郡具志頭村新城。(2) 村名。現、宜野湾市新城。(3) 島名。あらぐすくじま 現、八重山郡竹富町新城島。西表島南風見崎の南東約6.5km。黒島の南西約4kmにある上地・下地二島の総称で、字新城を構成。(4) 村名。現、宮古郡城辺町新城。
  • 黒島 くろしま (1) くるしま 現、島尻郡渡嘉敷村渡嘉敷。渡嘉敷島の北東約4.7kmに位置する。(2) くろしま 現、八重山郡竹富町。西表島の南東約10kmにあり、一島で字黒島を構成。
  • [糸満市]
  • 潮平 しおひら/すんじゃ 沖縄県糸満市にある地名の一つ。1961年に当時の糸満町が現在の市域に拡大・合併するまで兼城村に属していた。1970年代までは現在の西崎との境界線が海岸線だったが、1980年代前半に西崎地域の埋め立てで当地域に面する海はなくなった。
  • 宮古 → 宮古諸島
  • [宮古諸島] みやこ しょとう 沖縄県南西部、先島諸島東部の諸島。宮古島を主島とし、伊良部・多良間などの島を含む。宮古列島。
  • 多良間 たらま 多良間島。宮古島と石垣島の中間に位置し、沖縄県宮古郡多良間村に属する島。宮古列島の南西端に位置し、東方にある宮古島との距離は約67km、西方にある石垣島との距離は約35kmである。また、多良間島の北方約10kmには水納島がある。
  • 伊良部 いらぶ 伊良部島。沖縄県の宮古諸島にある島。宮古島市に属す(2005年10月に合併するまでは宮古郡伊良部町)。宮古島の北西約5kmに位置する。隆起サンゴの島で、全体に平坦な地形をしている。面積29.05km2、周囲26.6km。最高地点は南東部にある牧山(標高89m)。
  • 先島 → 先島諸島
  • [先島諸島] さきしま しょとう 沖縄県南西部の宮古諸島と八重山諸島の総称。尖閣諸島を含めることもある。
  • 八重山 → 八重山諸島
  • [八重山諸島] やえやま しょとう 沖縄県南西部、先島諸島西部の諸島。石垣・西表の2島のほか、幾つかの小島を含む。八重山列島。
  • 宮良 みやら 村名。現、沖縄県石垣市宮良。南北に長い村域で南は宮良湾に面し、南西端を宮良川が南流して同湾に注ぐ。
  • 西表 いりおもて 沖縄県南西部、八重山諸島の島。石垣島の西にある。面積289平方キロメートル。広く亜熱帯原生林におおわれる。
  • 波照間 はてるま 波照間島。沖縄県南西部、八重山諸島の島。石垣島の南西60キロメートル、隆起珊瑚礁から成る。サトウキビを産する。
  • 与那国島 よなぐにじま 沖縄県の島。日本の最西端。台湾への距離110キロメートル、那覇へ530キロメートル。サトウキビを産する。俗称、女護島。面積28.8平方キロメートル。
  • 倭国・和国 わこく (1) 漢代以来、中国から日本を言った称。(2) 日本の自称。
  • [朝鮮]
  • 済州島 さいしゅうとう/チェジュド (Cheju-do)朝鮮半島の南西海上にある大火山島。面積1840平方キロメートル。古くは耽羅国が成立していたが、高麗により併合。1948年、南朝鮮単独選挙に反対する武装蜂起(四‐三蜂起)の舞台となる。付近海域はアジ・サバの好漁場。観光地として有名。周辺の島嶼と共に済州道をなす。
  • 高句麗・高勾麗 こうくり 古代朝鮮の国名。三国の一つ。紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国という。中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、4〜5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年頃より国内城(丸都城)、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。内部に壁画を描いた多くの古墳を残す。高麗。( 〜668)
  • [中国]
  • 台湾 たいわん (Taiwan)中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200キロメートルにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方キロメートル。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • 江南 こうなん 長江下流南側の地。江蘇・安徽省南部と浙江省北部を含む。広く、長江以南の地方を指すこともある。
  • 夷州
  • 亶州
  • ボルネオ Borneo 世界第3の大島。ジャワ島の北、セレベス(スラウェシ)島の西に位置し、熱帯雨林の開発が進む。石油を産出。南部はもとオランダ領。1945年よりインドネシアの一部となりカリマンタンと呼ばれる。北部は19世紀半ば以降イギリスの勢力下にあったが、63年にサバ・サラワクがマレーシアに加入、残るブルネイも84年独立。面積74万平方キロメートル。カリマンタン島。
  • サモア Samoa (1) 南太平洋、オーストラリアの東約3200キロメートルにある十数の島から成る小群島。サヴァイイ・ウポル・トゥトゥイラの3島を中心とし、住民はポリネシア人。1899年米領東サモアと独領西サモアとに分割。(2) (1) のうち、サヴァイイ・ウポルの2島を中心とする西部の島嶼から成る独立国。1919年以来、西サモアとしてニュー‐ジーランドの委任統治領、62年独立し、97年現名に改称。面積約2900平方キロメートル。人口17万1千(2000)。首都アピア。
  • ポリネシア Polynesia (「多くの島」の意)太平洋にあって、ハワイ・イースター島・ニュー‐ジーランドを頂点とする三角形に含まれる島々の総称。広大な面積に散在するが、共通した言語と文化をもつ。フランス領ポリネシア・クック諸島・サモア・トンガなど。
  • インドネシア Indonesia (ネシアは島の意)西南太平洋にある共和国。スマトラ・ジャワ・ボルネオ(カリマンタン)・セレベス(スラウェシ)・ティモール(西部)・ニューギニア(西部)の諸島およびその付近の島々から成る。1602年からオランダの植民地。1949年独立。住民の約90パーセントはイスラム教を信仰。首都ジャカルタ。面積190万4000平方キロメートル。人口2億1708万(2004)。
  • [ドイツ]
  • ライプチヒ Leipzig (ライプツィヒとも)ドイツ東部、ザクセン州の都市。1813年、ここでプロイセンをはじめとする同盟軍がナポレオン軍に大勝。書籍出版・楽器製造・国際見本市で有名。人口49万(1999)。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表

  • 李朝 りちょう (2) 朝鮮の最後の王朝。1392年李成桂が高麗に代わって建て、対外的には朝鮮国と称す。1897年に国号を大韓帝国と改め、1910年(明治43)日本に併合されて、27代519年で滅んだ。国教は朱子学(儒学)。都は漢城(現ソウル)。朝鮮王朝。李氏朝鮮。(1392〜1910)
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  • 南島の黥
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  • 十四世紀中葉 中山王察度のときに、中山最高の神官聞得大君が久高島参詣の途中、暴風にあって日本に漂流した話。『遺老説伝』ほか)
  • 洪武五(一三七二) 以来、シナ・琉球間の交通はようやくさかんになって、このときまでに七回も冊封使を派遣し、また琉球の官生らも国子監に入学。
  • 天順五(一四六一) 『大明一統志』編纂の琉球国の条に「黥手」。「婦人以墨黥手。為飛蛇文」
  • 成化一五(一四七九) 朝鮮済州島の人数名が与那国島に漂流し、一年有半かけて、西表・波照間・新城・黒島・多良間・伊良部・宮古・沖縄を経由して帰国。彼らの見聞談を朝鮮の史官が書き取ったのが『李朝実録』中に載っている。
  • 嘉靖一一(一五三二) 琉球に使いした明人陳侃の『使琉球録』は『大明一統志』の文句を引用、「婦人以墨黥手、為飛虎文」「其婦人真以墨黥、花草鳥獣之形」
  • 慶長年間(一五九六〜一六一五) 琉球をおとずれた浄土宗の碩学袋中の『琉球神道記』おそらく琉球婦人の黥のことが、日本の文献に現われた最古のもの。
  • 康煕五八(一七一九) 琉球をおとずれた冊封副使徐葆光、『中山伝信録』中に、婦人の黥について記す。
  • 宝暦一二(一七六二)夏 琉球国の楷船が土佐の大島に漂流したとき、土佐の学者の戸部良熙が、琉蔵役の潮平親雲上に琉球の事情を聞いて『大島筆記』を物したが、その中にも琉球婦人の黥に関することが見えている。
  • 明治二七(一八九四) 笹森儀助『南島探験』出版。
  • 一九一三 Edmund M. H. Simon "Beitrge zur Kenntnis der Riukiu Inseln. " 沖縄諸島および奄美大島諸島の婦人の黥。
  • 一九二五 W. D. Hambly "The History of Tattooing and its Significance. " サモア島婦人の黥。
  • 一九二五、六ごろ 伊波、鬼界島を訪れる。その婦人の黥が十人十色で、技術者により、部落により、家筋により、個人によって、趣きを異にしているのを見聞。
  • 昭和五(一九三〇)年三月二八日 伊波「琉球婦人の黥」『日本地理風俗大系 第十二巻』新光社。
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  • 琉球女人の被服
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  • 成化一三/文明九(一四七七) 朝鮮の済州島の人民が、琉球群島の西南端の与那国島に漂流し、八重山および宮古の島々をへて沖縄に送られたことがあり、その見聞談が『李朝実録』に採録。
  • 嘉靖一一/天文元(一五三二) 渡琉した冊封使陳侃の『使琉球記』〔使琉球録〕中にも、婦人の服装について、「上衣之外、更用幅如帷。蒙之背上。見人則以手下之。而蔽其面。下裳如裙。而倍其幅。褶細而制長。覆其足也。其貴家大族之妻。出入則戴。坐於馬上。女僕三四従之。但無布帽毛衣螺佩之飾」と記してある。
  • 慶長一四(一六〇九) 島津氏の琉球入り以後、制度の変遷につれて神人の服装にも変遷おこる。
  • 康煕五八/享保四(一七一九) 『伝信録』の著者徐葆光は、琉球国王尚敬を冊封するために渡島した副使で、八か月間滞在。
  • 寛保二(一七四二)一一月 寺社座から那覇横目に「かつぎ」に関する達し。『親見世旧記』
  • 宝暦一二(一七六二) 土佐の学者・戸部良熙『大島筆記』、琉球の人物風俗の条衣服の項。
  • 嘉永・安政(一八四八〜一八六〇)ごろ 薩摩の藩士名越左源太『南島雑話』、当時、大島にいた琉球遊女の図。
  • 安政十一〔「安政十一」は底本のまま〕三月六日 伊波の祖父、大和横目職に任ぜられ、在職の三年二か月間これを有す。
  • 明治四〇(一九〇七)春 伊波、八重山・宮良の小学校の卒業式に列席して、来賓中の婦人たちが一人も残らず第七図〔割愛〕のような「どじんかかん」を纏うているのを目撃したが、上衣が長すぎて下裳は容易に見えなかった。
  • 大正元(一九一二)一一月 喜舎場朝賢『東汀随筆』第二巻「国人男女衣帯の事」
  • 大正二(一九一三)夏 伊波、はじめて久米島を訪れる。島の女にハカマをつけない者のかなり多いのを見る。
  • 大正七〜昭和四(一九一八〜一九二九) 伊波、大島諸島に三度採訪。古俗の忠実に保存されていることを知る。
  • 昭和一八(一九四三)九月一日 伊波「琉球女人の被服」『被服』第十四巻第五号。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 察度 さっと 1321-1395 琉球の国王の一人。中山王。現在の宜野湾市の出身だという。宜野湾市の偉人の一人。神名は、大真物。伝承では浦添謝名の奥間大親と伝説上の天女である飛衣(羽衣)の子とされる。生まれた家は極めて貧しかったが、当時強勢を誇っていた勝連按針の娘を娶ったことにより家運を起こした。30歳のとき、浦添の英祖王統を滅ぼし察度王統を建てる。
  • 中山 ちゅうざん 琉球の別称。 → 尚氏
  • 尚氏 しょうし 琉球の王家。思紹・尚巴志父子が15世紀初め沖縄本島の山南・山北・中山を統一して首里に統一政権をつくる。普通これを第一尚氏という。7代で滅び、1470年尚円により第二尚氏の王朝が成立、以後その勢力は近隣諸島にも延び、19代400年にわたって琉球を支配した。1872年、尚泰(1843〜1901)は明治政府により琉球藩王とされたが、79年琉球処分により東京に移住。
  • 君真物 きんまもん 首里王府神女組織の最高神女聞得大君に憑依する最高神。『琉球神道記』によると、琉球の国土と人民を守護するために出現するという。この神は海底の宮に住み、毎月現れて託宣し、カヤを持ち各所の森で神遊びをしてオモロを歌うと記される。(日本史)
  • 場天祝女 ばてん のろ
  • 島津氏 しまづし 中世〜近世南九州の大名家。本姓惟宗氏。始祖忠久は近衛家の家司出身で、源頼朝の御家人となり、島津荘惣地頭職に任じられた。のち薩摩・大隅・日向三国の守護。(日本史)
  • シーモン博士 → Edmund M. H. Simon か
  • 袋中 たいちゅう 1552-1639 江戸時代前期の浄土宗の学僧。俗姓は佐藤氏。陸奥国菊多郡の出身。弁蓮社入観・良定と号する。/慶長年間の琉球征伐のころに琉球を見舞う。著『琉球神道記』。
  • 白鳥庫吉 しらとり くらきち 1865-1942 東洋史学者。上総茂原生れ。東大教授。近代的東洋史学を確立し、北方民族および西域諸国の研究を開拓。東洋文庫研究部を創設。著「西域史研究」など。
  • リース博士 → ルートヴィッヒ・リース
  • ルートヴィッヒ・リース Ludwig Riess 1861-1928 ドイツのユダヤ系歴史学者。1887年から1902年の間、日本に滞在し、帝国大学で、史料批判による歴史学を教えた。
  • 陳侃 ちんかん 琉球に使した冊封使。
  • ハンブリー → W. D. Hambly か
  • Edmund M. H. Simon
  • W. D. Hambly
  • M. Guillemard
  • Beechey, Frederick William 1796-1856 ビーチ。イギリスの海軍士官、地理学者。J. フランクリンの北極探検、W. E. パリの北極探検に参加し、ついでアフリカ北岸調査にあたり、また太平洋の探検調査に従事して(1825〜)小笠原諸島を発見し、実測の結果、同島のイギリス領有を宣言した。(岩波西洋)
  • 藤田博士 → 藤田豊八
  • 藤田豊八 ふじた とよはち 1869-1929 東洋史学者。徳島生れ。号は剣峰。東大教授をへて台北帝大教授。著「東西交渉史の研究」「剣峰遺草」
  • 笹森儀助 ささもり ぎすけ 1845-1915 探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実体がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代目青森市長も務めている。また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。
  • 岩倉市郎 いわくら? 著『加無波良夜譚』。
  • 喜舎場朝賢 きしゃば ちょうけん 1840-1916 東汀。江戸時代末期・明治期の役人、詩人。琉球王側仕。維新慶賀使。著『琉球見聞録』『東汀詩集』など。(人レ)/著『東汀随筆』『続東汀随筆』。
  • 徐葆光 じょほこう 康煕五十八年に琉球をおとずれた冊封副使。著『中山伝信録』。
  • 戸部良煕 とべ ながひろ/よしひろ 1713-1795 愿山(げんざん)。江戸時代中期の土佐藩士。(人レ)/著『大島筆記』。
  • 潮平親雲上 シュンジャ ペーチン
  • 加那志 がなし 御主。
  • -----------------------------------
  • 琉球女人の被服
  • -----------------------------------
  • 名越左源太 なごや さげんた 1820-1881 薩摩藩士。諱は時敏、時行とも。欽斎と号した。父は名越盛胤。鹿児島城下の下竜尾町の生まれ。大島謫居中に『南島雑話』を物す。
  • 尚泰王 しょうたいおう 1843-1901 琉球王国第二尚氏王統第19代国王。最後の国王。在位1848年〜1879年。父は、第18代国王尚育王。わずか4歳(数え年では6歳)にして即位。1879年の所謂琉球処分の断行で琉球藩に沖縄県が設置されると、王号を剥奪され居城の首里城も追われ、琉球王国は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、明治政府の命により東京に移住させられる。
  • 尚敬王 しょうけいおう 1700-1752 琉球第2尚氏王朝第13代国王(在位、1713-1752)。第12代国王尚益王の子。蔡温を三司官にして、多くの改革を行った。1712年(康熙51年)、薩摩藩から許され、琉球国司から琉球国王の王号に復す。
  • 玉城朝薫 たまぐすく ちょうくん 1684-1734 沖縄の歌舞劇「組踊」の創始者。琉球王朝の官僚として要職を歴任。中国の冊封使歓待のため、踊奉行に任じられ、組踊をつくる。作「執心鐘入」「二童敵討」「女物狂」「孝行の巻」「銘苅子」
  • 殷元良 いんげんりょう 1718-1767 近世琉球画壇を代表する絵師。本名は座間味(ざまみ)庸昌(ようしょう)。座間味間切の総地頭で位は親雲上。12才で城中に召され、宮廷絵師の呉師虔(ごしけん、山口宗季)に師事。1752年、進貢使節の北京大通事として北京に赴く。54年帰国。現存作品は「花鳥図」「雪中雉子の図」。(日本史)
  • 島袋 しまぶくろ? 画家。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『岩波西洋人名辞典増補版』。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
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  • 南島の黥
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  • 『遺老説伝』 いろう せつでん 1745年、鄭秉哲らによって編纂された「球陽」の外巻として編纂される。外巻3巻、附巻1巻の4巻。全部で141話。外巻3巻に琉球国内の説話128話を収め、附巻に日本(薩摩)と関連する説話を集めている。「遺老」とは、経験を経た老人の意で、本編に収めるほどには信頼できない話をここにまとめている。
  • 『琉球神道記』 りゅうきゅう しんとうき 禅僧袋中が著した琉球神道に関する最古の書。1603年から3年間の那覇滞在中に、馬幸明(ばこうめい、馬高明)に請われて筆をおこした。琉球の説話や風俗についての記述も多い。5巻からなり、第4巻は琉球の寺院、第5巻は琉球の神社について記す。第5巻の巻末に「キンマモン事」と題する章を設け、本来の琉球の神道について見聞を記録する。(日本史)
  • 隋史 → 隋書か
  • 『隋書』 ずいしょ 二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。唐の魏徴らが太宗の勅を奉じて撰。636年成る。志30巻は656年に成り、後に編入。
  • 「琉求伝」
  • 「夷州および亶州について」 白鳥庫吉の論文。
  • 『明史』 みんし 二十四史の一つ。明朝の正史。清の張廷玉らの奉勅撰。60年を費やして1739年成る。本紀24巻、志75巻、表13巻、列伝220巻、目録4巻。
  • 『明史』「琉球伝」
  • 『大明一統志』 だいみん いっとうし 明代の中国全土および周辺地域の総合的な地理書。90巻。明の英宗の勅を奉じて李賢らが撰。1461年成る。
  • 『李朝実録』 りちょう じつろく 李朝 (2) の太祖から25代哲宗に至る約500年の編年体記録。1706巻。李朝史研究の根本史料。朝鮮王朝実録。
  • 『使琉球録』 しりゅうきゅうろく 2巻。陳侃著。1534年に尚清王の冊封正使として来琉した陳侃の復命書。現在確認される最古の使琉球録(冊封使録)であり、上巻に使事紀略、下巻に群書質異・天妃霊応記、夷語を収める。16世紀中期の琉球の国情・地誌を知るうえで貴重。
  • "Beitrge zur Kenntnis der Riukiu Inseln. " Leipzig 1913.(一三六ページ―一四六ページ) 「琉球島の知識についての論集」Edmund M. H. Simon 博士の著。
  • "The History of Tattooing and its Significance. " London 1925(二六〇ページ) W. D. Hambly の著。
  • 「琉求人南洋通商の最古の記録」 藤田豊八の著。
  • 魏史の倭人伝 → 魏志倭人伝
  • 『魏志』 ぎし 中国の魏の史書。晋の陳寿撰。「三国志」の中の魏書の通称。本紀4巻、列伝26巻。
  • 『魏志倭人伝』 ぎし わじんでん 中国の魏の史書「魏志」の東夷伝倭人の条に収められている、日本古代史に関する最古の史料。
  • 『南島探験』 なんとう たんけん 笹森儀助の著。沖縄調査記録。1894(明治27)5月刊。前年5月青森を出発、6か月間沖縄本島から宮古島・石垣島・西表島・与那国島まで踏査。この間の見聞を日記体で記録した。とくに宮古島の人頭税廃止運動や、人頭税・マラリアに苦しむ八重山民衆の惨状は、明治政府の旧慣温存政策への批判となっている。「日本庶民生活史料集成」所収。(日本史)
  • 『加無波良夜譚』 かんばら よばなし 岩倉市郎の著。
  • 『続東汀随筆』 ぞく とうてい ずいひつ 喜舎場朝賢の著
  • 『中山伝信録』 ちゅうざん でんしんろく 清の徐葆光の撰。6巻。康煕帝の時、冊封副使として琉球に渡った際の復命報告書。1721年成る。
  • 『大島筆記』 おおしま ひっき 江戸中期の琉球に関する記録。上下2巻および付録。戸部良煕(助五郎・原山)著。1762(宝暦12)に琉球船が土佐国柏島大島浦に漂流した際、戸部が琉球蔵役の潮平親雲上ら漂着者からききとりをおこない、内容を「南島志」や「中山伝信録」などで検討してまとめた。琉球の政治・社会・産物・風俗などを記述。「日本庶民生活史料集成」所収。(日本史)
  • 通考 つうこう 馬端臨撰『文献通考』(1307年成立)、新井白石著『同文通考』(1760年刊)『続文献通考』(1784年完成)、劉錦藻撰『清朝続文献通考』(1912年完成)。
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  • 琉球女人の被服
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  • 『江戸立之時仰渡並応答之条々之写』
  • 『南島雑話』 なんとう ざつわ 「大窃覧(だいとうせつらん、漫筆)」「南島雑記」とも。江戸末期の奄美大島の図誌。原本不明のため正確な巻数は不明。鹿児島藩士の名越時行(時敏、左源太)が奄美大島への配流時に著した。1850〜55(嘉永3〜安政2)の成立とされる。奄美大島に関する地理・自然・生活・習俗・産物・行政などの網羅的な地誌で挿図が入る。一部、「大島私考」などの文献を参考にしている。(日本史)
  • 『琉球古今記』
  • 「旅ぐわいにや」
  • 『東汀随筆』 とうてい ずいひつ 第二巻「国人男女衣帯の事」 喜舎場朝賢の著。大正元年十一月稿。
  • 「銘苅子」 めかるしい 沖縄の組踊の曲名。玉城朝薫作。羽衣伝説に取材し、首里を舞台とする。
  • 「孝行之巻」
  • 『親見世旧記』 → 『親見世日記』か?
  • 『親見世日記』 うえーみし にっき 3冊。近世の那覇に設置された行政機関の公務日記のこと。那覇の行政や世相の記録だけでなく、薩摩鹿児島藩の派遣した在番奉行やら大和(鹿児島船)などとの折衝記録でもあった。
  • 『をなり神の島』「鬼界雑記」 伊波の著。
  • 『使琉球記』 → 『使琉球録』
  • 『琉球風土記』 朝鮮の刊行か。
  • 『をなり神の島』「琉球更紗の発生」 伊波の著。
  • 『混効験集』 こんこうけんしゅう 琉球最古の辞書。副題は「内裏言葉」。尚貞王の命により1702年頃編纂事業が開始され、11年完成。編者は奉行の松村按司、主取の座間味親雲上ら8人で、とくに三司官識名盛命は和文学者として知られる。見出し語は1050語。(日本史)
  • 『日本文化の南漸』 伊波の著。
  • 『沖縄考』 伊波の著。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*難字、求めよ

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  • 南島の黥
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  • 黥 げい (慣用音)いれずみ。いれずみの刑。墨刑。
  • 神託 みせぜる
  • 祝女・巫女 のろ (沖縄で)部落の神事をつかさどる世襲の女性司祭者。
  • 督励 とくれい 仕事・任務を進めるため、監督し励ますこと。
  • 坂迎へ・境迎へ さかむかえ (1) 平安時代、新任の国司が任国の国境に到着した時に、国府の官人が出迎えて饗応する儀式。(2) 遠い旅から帰る者を村境に出迎えて酒宴をすること。京都では、伊勢参りから帰る者を逢坂関に出迎えた。酒迎。
  • 墨黥
  • タジュク 魚の名。
  • 侍女 アガマー
  • 浄土宗 じょうどしゅう 仏教の一派。浄土三部経を所依とし、法然を宗祖とする。自力教を排して、他力念仏によって極楽浄土に往生することを目的とする。その門流は、弁長の鎮西義、証空の西山流、隆寛の長楽寺流、長西の九品寺流、幸西の一念義の五流に分かれる。現在の浄土宗は鎮西派の流れをくむ。
  • 碩学 せきがく [後漢書儒林伝、論](「碩」は大の意)学問のひろく深い人。大学者。碩儒。
  • 胡国 ここく (1) 中国北方のえびすの国。北狄の国。(2) 野蛮国。
  • 南米
  • 倭人・和人 わじん 中国人が日本人を呼んだ古称。
  • 歯印 しいん 古くインドに見られた風習で、文書、証書などに粘土で封をし、その上に、封じる人の歯形をつけたもの。
  • 形印
  • 冊封使 さっぽうし/さくほうし 中国で、天子の勅を奉じて周辺諸国に使し、封爵を授ける使節。
  • 官生 かんしょう 琉球から中国の最高学府の国子監への留学生。明代の1392年日孜毎(にしみ)ら3人の派遣を嚆矢とする。1868(明治元)まで都合27回、約100人が派遣され、琉球に大きな影響を与えた。人選は当初、王族や按司の子弟、明代中期から1800年までは久米村の独占、02年以後、久米村・首里半数ずつ。(日本史)
  • 国子監 こくしかん (1) 隋代、学校を総管するための教育行政の中央官庁。明代、両者を兼ねる。(2) 大学寮・大学允の唐名。
  • 縁引 えんびき 親類の関係または縁故のあること。縁辺。
  • 明初
  • オーストロ・アジアティク語
  • オーストロアジア語族 (Austro-Asiatic)アジア南部に分布する言語。インドシナのモン‐クメール語派、インドのムンダー諸語、インドのニコバル諸語の3群に分かれる。アウストロ‐アジア語族。南アジア語族。
  • 間切 まぎり (2) 琉球で土地の区画の称。行政区画の一つで、数村から成り、郡の管轄に属した。
  • 高膳 たかぜん 高足膳(たかあしぜん)に同じ。足の高い膳。
  •  ちくり 兄弟の妻どうしが互いに呼びあうことば。
  • おもろ (「思い」と同源で、神に申し上げる、宣り奉るの意)沖縄・奄美諸島に伝わる古代歌謡。呪術性・抒情性を内包した幅の広い叙事詩で、ほぼ12世紀から17世紀はじめにわたって謡われた。それを集大成したものに「おもろさうし」(22巻、1554首、1531〜1623年)がある。
  • 楷船 かいせん 海前。江戸時代、琉球から薩摩藩へ貢献のため運航した琉球の官船。琉球から清国へ進貢船として二、三度用いた船の武装を解いたもので、典型的な唐船造り(中国式ジャンク)である。春に仕立てる春先楷船と夏に仕立てる夏立楷船とがある。
  • 琉蔵役 〓 琉球蔵役か
  • 親雲上 おやくもい/ペーチン 琉球の官職。親方の下で筑登之の上。1村程度を所領とし、行政上重要な役職の大部分は、この層から選任された。
  • 聞得大君 きこえのおおきみ/きこえおおぎみ 琉球の固有宗教における神女の最高位の呼称(通称)。「聞得大君」は「最も名高い神女」という意味で、宗教上の固有名詞となる神名は「しませんこ あけしの」。/首里王府において国家的な女性司祭組織の頂点に位置する司祭。方言ではチフィジン。制度化されたのは第二尚氏王統(1470)以降のこと。地方の女性司祭を管轄する三平等のオオアムシラレや三十三君と称される中央の女性司祭集団を統轄し、国王や王室の繁栄を祈り、王国レベルの祭祀儀礼を施行した。廃藩置県まで、王女・王妃・王母などがその職につき、就任式であるお新下りはセーファウタキ(斎場御嶽)で行われた(日本史)。
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  • 琉球女人の被服
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  • 下裳 したも (1) 奈良時代から平安時代にかけての女子の衣服。スカート状の上裳(うわも)の下にはく裳。←→上裳。(2) 湯巻。ゆもじ。
  • 衣帯 いたい (1) 衣と帯。(2) 衣服を着、帯を結ぶこと。装束。
  • 胴衣裙 ドジンカカン
  • 単衣 チーヂン 冬の上衣。
  • たなし 夏の上衣。手無・袖無。筒袖の仕事着。てなし。方言(1) 女の夏の礼服。沖縄県首里(2) 打ち掛け。八重山。
  • 娼妓 しょうぎ 遊女。特に、公認された売春婦。公娼。
  • 娼児
  • 小女郎 こじょろう (1) 浄瑠璃「博多小女郎波枕」中の人物。博多柳町の遊女。京の商人小町屋惣七の愛人。(2) 越前三国の湊の遊女。玉屋新兵衛の愛人。元禄期頃の歌謡に二人の情話が歌われ、小説・戯曲の題材となる。浄瑠璃に「三国小女郎曙桜」、歌舞伎に並木五瓶作「富岡恋山開」など。
  • 弄悩 わにやく
  • 袷衣 わたぢん/こうい 裏のついた着物。あわせ。
  • 茶帳 ちゃちょう? 薩摩の在番奉行所から交付された免許状。
  • 大和横目 やまと よこめ 首里王府の役職。1632(寛永9)頃設置。もと鹿児島藩の在番奉行が任じたもので、大和船頭・水主の取締り、唐船・進貢船の出入などの監視にあたらせた。のち王府の役職となり、職務ももっぱら在番奉行の御用、接待役へと変化した。定員4人、任期3年で無給。那覇士族が任じられたが、任期中相当な出費を要し、財を失う者も多かった。同職を勤めあげると御物城職への道が開けた。(日本史)
  • 板舞 いたまい シーソー。ぎったんばったん。ぎっこんばったん。
  • 紫長巾
  • 紗綾 さや (サアヤの約)地を平組織に、文を経の四枚綾組織とした平地綾文の絹織物。地紋に紗綾形が多い。室町末ごろから江戸前期にかけて、小袖・羽織・帯などに多く用いた。
  • 取裙 とりかかむ
  • 蛇祭
  • 轎 きょう (1) かご。肩でかつぐこし。やまかご。(2) 小さくて軽い車。
  • 寺社座
  • 被衣 かつぎ (カヅキの転)「きぬかずき」に同じ。
  • 衣被き・被衣 きぬかずき (「かずき」は「かぶり(被)」の意) 平安時代ごろから身分ある女性が外出時顔をかくすために、衣をかぶったこと。また、その衣。元来は袿をそのままかずいたが、漸次背通りより襟を前に延長して、かずき易いように仕立てるのを常とした。きぬかつぎ。きぬかぶり。かずき。かつぎ。
  • 瓔珞 ようらく (1) インドの貴族男女が珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。頭・首・胸にかける。また、仏像などの装飾ともなった。瑶珞。(2) 仏像の天蓋、また建築物の破風などに付ける垂れ飾り。
  • 方所・方処 ほうしょ 方角と場所。ところ。場所。
  • 贅する ぜいする よけいなことを書き記す。必要以上のことを言う。
  • 前佩 まえはき?
  • 御印加那志 おいんがなし
  • 首里之印
  • 阿良不利 あらふり
  • 円筐子
  • 棕葉 椶葉 しゅば? そうば?
  • 苧・ からむし (「むし」は朝鮮語mosi(苧)の転か、あるいはアイヌ語mose(蕁麻)の転か)イラクサ科の多年草。茎は多少木質で、高さ約1.5メートル。葉は下面白色、細毛が密生。夏秋の頃、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。雌雄同株。茎の皮から繊維(青苧)を採り、糸を製して越後縮などの布を織る。木綿以前の代表的繊維で、現在も栽培される。苧麻。草真麻。
  • 直領 直垂(ひたたれ)か?
  • 衣褌 いこん?
  • 衣裳 いしょう (1) 上半身に着る衣(きぬ)と、下半身につける裳(も)。「裳」は今のスカートのようなもの。
  • 曲玉・勾玉 まがたま 古代の装身・祭祀用の玉。C字形で、端に近く紐を通す孔がある。多くは翡翠・瑪瑙・碧玉を材料とし、また、純金・水晶・琥珀・ガラス・粘土などを用いた。長さ1センチメートル未満の小さいものから5センチメートル以上のものもある。形状は縄文時代の動物の犬歯に孔をうがったものから出たといい、首や襟の装飾とし、また、副葬品としても用いられた。朝鮮半島にもあり、王冠を飾る。まがりたま。
  • 足結・脚結 あゆい 動きやすいように、袴を膝頭の下で結んだ紐。鈴や玉をつけ服飾とした。あしゆい。あよい。
  • 二つながら・両ながら ふたつながら 二つとも。双方いずれも。
  • 椎髻 ついけい 椎結(ついけつ)。髪を後ろにたれ、たばねたまげ。
  • 白苧 はくちょ (1) 麻の一種。苧麻。(2) 白苧で織った衣。
  • 綵段 さいたん
  • 襦襖 じゅおう?
  • 児襦
  • 守令 しゅれい 中国で、郡守と県令。郡県の長官。
  • 斑染マ
  • マ帛 かいはく 「そうはく」か? 「マ」はソウ、シュウ。
  • マ帛 そうはく 絹地。
  • 苧布 ちょふ?
  • 生苧 なまからむし?
  • 胡蝶形 はべるがた
  • 蜻蛉御衣 あけづ みそ
  • 外間祝女 ほかま のろ
  • ウシンチー
  • 更紗 サラサ (「(花などの模様を)まきちらす」意のジャワの古語セラサからか。ポルトガル語を介して、17世紀初め頃までに伝来) (1) 人物・鳥獣・花卉など種々の多彩な模様を手描きあるいは木版や銅板を用いて捺染した綿布。インドに始まり、ジャワのバティック、オランダ更紗などに影響を与えた。もとインドやジャワなどから渡来。日本で製したものは和更紗という。印花布。花布。暹羅染。(2) 花の色で紅白うちまじってサラサに似たもの。(3) 更紗形の略。
  • 紅型 びんがた 沖縄で産する文様染。1枚の型紙を用いて多彩な文様を染め分ける。
  • 絵がき御羽 えがきみはね 北部地方の神女の首里王府から交付される。
  • 形付・型付 かたつき (1) 文様のついていること。また、そのもの。(2) サラサの別称。
  • 型付け かたつけ (1) 型紙を布の上にあて、染料を捺して模様をつけること。捺染のこと。また、それを行う職人。型置き。(2) 仕舞付に同じ。
  • 朝衣 ちょうい 朝廷に出仕する時に着る衣服。
  • 三司官 さんしかん 琉球の官職。摂政に次ぐ地位。定員3名。評定所で合議して国務を処理し、また重要な役所を分担して行政を指揮した。三法司。三司台。あすたべ。
  • 按司 あんじ (アンズ・アジとも)古琉球の階級の一つ。諸侯に相当する。もと領主の意、後には一間切(村)を与えられた王家の近親をいう。
  • 生芭蕉 なまばしょう
  • 芭蕉 ばしょう (古く「はせを」とも表記) バショウ科の大形多年草。中国原産。高さ5メートルに達し、葉鞘は互いに抱いて直立。葉は長さ2メートル近くの長楕円形で、長柄を持ち、支脈に沿って裂け易い。夏秋に長大な花穂を出し、帯黄色の単性花を段階状に輪生。茎・葉を煎じて利尿・水腫・脚気などに服用。根も薬用とする。
  • 海部・海人部 あまべ 大和政権で、海運や朝廷への海産物貢納に従事した品部。
  • 衫 さん ひとえの短い衣。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 Wikipedia「入れ墨」の「江戸時代の入れ墨」の項にもあるとおり、「漁民が出漁中に遭難死した場合の身元確認用に用いられていた」という説を、以前どこかで読んだ記憶がある。出身の漁村ごとに若干のちがいがあるので、こんどの土左衛門や恵比寿さまはどこぞの村出身だとおおよその見当がついたらしく、ていねいに葬っておいて、後日その村へ連絡したというような内容だったと思う。
 ざんねんながら、今回の伊波普猷「南島の黥」には該当する記述はなかった。興味深かったのは、琉球では女性にかぎられていたということと、どうやら両手の甲と指に場所が限定していたということ。おなじ入れ墨でも、アイヌ女性のばあい、口のまわりにほどこしたのと大きく異なる。

「自郡至女王國萬二千餘里、男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」(魏志倭人伝)

「男子皆黥面文身、以其文左右大小、別尊卑之差。」(後漢書倭伝)

「男女多黥臂、點面文身、沒水捕魚。」(隋書倭国伝)

「あめつゝちとりましとゝ 何故(など) 黥(さ)ける 利目(とめ)――お前の目は、なぜそんなに黥(いれずみ)がしてあるのか」
「をとめに たゞにあはむと わが黥(さ)ける 利目(とめ)――あなたのような美しい、若いお媛(ひめ)さまに会うために、私が黥(いれずみ)をしておいた、この眦(めじり)の黥です」『古事記』いすけより媛とおおくめの命の会話、折口信夫「歌の話」より)

「武内宿禰自東国還之。奏言、東夷之中有日高見国。其国人、男女並椎結文身、為人勇悍。是総曰蝦夷。亦土地沃壌而曠之。撃可取也。『日本紀』景行天皇二十七年二月条)

 入れ墨をはじめ、身体欠損をタブーとするようになったのは仏教伝来後というのが通説。「身体髪膚(はっぷ)、之を父母に受く、敢て毀傷せざるは、孝の始め也」(孝経開宗明義章)。ん? “孝経”だから儒教伝来後か。

 松岡正剛『法然の編集力』(NHK出版、2011.10)読了。




*次週予告


第四巻 第三〇号 
『古事記』解説  武田祐吉
上代人の民族信仰 宇野円空


第四巻 第三〇号は、
二〇一二年二月一八日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第二九号
南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
発行:二〇一二年二月一一日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。




※ 定価二〇〇円。価格は税込みです。
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