< WARNING > 人によっては不快感と鬱を感じる内容です。 自分にとって、危ない!と思ったり、また、この展開はマズイ!と思われたら 退避をお願いします。 ―б― ずっと昔のこと。 黒猫は捨て猫だった。 尻尾を二本持った変わった猫だった。 親の顔はかすかに覚えている。 兄弟もいたが、よく尻尾のことをバカにされた。 お母さんは優しかったけど、 お父さんはあまり可愛がってくれなかったような気がする。 そして、お母さんが病気で死ぬと、 黒猫はどこか知らない遠くの山奥に捨てられた。 寂しがりやだったので、ずっと毎日泣いて暮らした。 友達が欲しかった。 でもまわりの猫たちは尻尾のことをからかったし、 人間の子供は、自分の姿を見るたび逃げ出した。 いつしか化け猫と呼ばれるようになり、 誰も黒猫に近づこうとしなくなった。 ある日意地悪な妖怪に襲われた。 なんとか逃げ出したが、途中で倒れてしまった。 このまま、お腹をすかせた妖怪に食べられちゃうんだろうか…。 お母さんの顔を思い出して、泣いた。 助けて欲しかった。 気付くと誰かの背中に負ぶさって森の中を走っていた。 だれ? 暖かい背中だった。 薄れる意識の中で、黒猫は思った。 お母さんが助けに来てくれたんだ…! お母さん、お母さん… そう呟いているうちに、黒猫は安心して眠ってしまった。 ―б― ―б― マヨヒガは今日も平和だった。 「ちょっと藍、なんであなたの油揚げのほうが大きいのよ。」 不機嫌そうな声でそう言ったのは八雲紫。 マヨヒガの主である。 「そんなことはありません。ちゃんと均等に切りました。」 そう何事もないように返したのは八雲藍。 八雲 紫の式である。 「そんなことないわよね?橙。」 同意を求められ、茶碗と箸を持ったまま 両方の顔を代わる代わる見て困っているのは橙。 八雲藍の式であった。 「文句を言うなら食べなくてもいいんですよ。」 藍はそう言う。 主人の文句はいつものことだ。 藍の態度に紫はムッとした顔をする。 「じゃあいらなーい。」 ぽい、と行儀悪く箸をお膳の上に投げ捨てると、 そのままごろんと寝転んでしまった。 子供の前での主人のあまりの行儀の悪さに、 もう、と藍は困り顔をする。 気まずい空気を察したのか橙がおそるおそる口を開く。 「ゆ、紫さま、あたしのぶんをあげますから…きげんを直してください。」 不貞寝していた紫はふふっと可笑しそうにふきだすと、 起き上がって橙の頭をごしごしと撫でた。 「フフ、まったく橙には敵わないわね。」 その日も、マヨヒガには暖かい空気が流れていた。 б 「いってきまーす!」 橙は元気よく手を振る。 見送りに立っているのは藍と紫。 今日は橙にとって特別な日、 初めて一人でお使いに行く日なのだ。 「気をつけるんだぞー!」 と藍はいつまでも手を振っていた。 よほど橙のことが心配なのだろう。 「まったく、あの子もいつまでも子供じゃないのよ?」 紫はあくびをしながらしゃべる。 心配性の藍に紫は少々あきれ気味の様子である。 「ですが、最近は物騒ですし…。」 「たかだかお使いくらいで、ふぁ…眠い。寝るわね、夕飯には起こして頂戴。」 「はいはい。」 わざと聞こえるように大きいため息をつく藍を無視して、 紫はまるで新鮮なお日様の光が体に毒だとでも言うように、 そそくさと布団の中へと潜り込んでいった。 紫は、その一日の大半を寝てすごしている。 別に起きていたところでやることもないのだ。 その間紫の使い魔である藍は、橙の笑顔と、今日は洗濯物が良く乾きそうかどうかを 数少ない一日の楽しみとして身の回りの雑用をこなす。 昔と何も変わらない、平和な一日だった。 夕方になって橙がお使いから帰ってきた。 橙は両手に抱えきれないほどの荷物をもって、 買い物袋にはたくさんの新鮮な野菜や、肉や魚がつまっている。 橙は帰る途中に、洗い物でもしているだろう藍さまに こっそり後ろから近づいておどかしてやろうと いういかにも子供らしく可愛らしいイタズラを計画していたが、 玄関の前で藍がいまかいまかと橙の帰りを待っていたので この計画は失敗に終わった。 橙は与えられた使命をこなし、自信満々で 偉いでしょ、とか頑張ったんだよ、とでも言いたげな笑顔で誇らしげに藍に荷物をわたす。 藍は橙が無事帰ってきたこともだが、 橙が一人で買い物に行けるまでに成長したことが とにかく嬉しかったようで、さぁ労いの褒め言葉をかけてあげなくてはな、と思ったところ―― 「あら橙、おかえりなさい。ちゃんと無事帰ってこれたわね。ごくろうさま!」 どこからともなくぬっと紫が現れ、橙の頭を撫でた。 橙は紫に褒められたことがよほど嬉しかったのか、 紫に、眼をキラキラ輝かせあんなことがあったこんなことがあったと、 藍そっちのけで話し始める橙。 まったくこの人はいつもおいしいところを… まぁいい、後でゆっくり褒めてやろう。今日はご馳走だな。 ふふっとやっぱり藍も嬉しそうに笑った。 б 「藍、ちょっと出かけるわ。」 「またですか?」 紫はこのごろ良く出かける。 このごろ幻想郷に暴れる無法者の妖怪が増えたのだ。 彼らは闇雲に山を焼き、畑を掘り返し、人を食い、他人のものを奪い去る。 はるか昔と比べればその数はだいぶ落ち着いたが、最近また増えだした。 幻想郷が隔離されて長い間立つ、いつまでも昔のままと言うわけではない。 ここ10年ほどで、幻想郷の異変は一気に増えた。 妖怪も人間も、心の奥底にストレスが溜まって来ていたのだ。 紫の役目はそういったならず者を退治することだ。 本来なら博麗の巫女である博麗霊夢が勝手にやる仕事なのだが、 夜間は退屈な紫が代行している。 紫自身も、自分の庭のような幻想郷で好き勝手やられるのは気分がよくなかった。 「そうだ、今日は橙も連れて行ってあげましょうか。」 その言葉をききつけ、橙と台所にいた藍が飛びついてきた。 「えー!いいのいいの紫さま!!」 「だめだめ!!そんなの絶対ダメです!」 ぎゃーぎゃーわめく二人を静かにさせると、紫は言った。 「なにも橙に戦わせようってわけじゃないわ。あなたは見てるだけよ、橙。」 橙はなんだというちょっと残念そうな顔を見せたが、 でもちょっとだけ安心した様子を見せた。 「見学だけならいいでしょ?藍。」 「で、ですが…」 「花火大会みたいで面白いわよー!」 「行きたい行きたい!藍さまお願い!」 「はい決まりね、夕飯までには帰るから。」 決まってしまった。 紫は藍の使い方が上手い、いやそれ以上に橙の使い方が上手い。 藍は渋っていたが、 今日頑張った橙のお願いを跳ね除けることもできず、 紫が付いていれば大丈夫かと思い しぶしぶ承諾を下した。 このとき 藍は噛み付いてでも二人を止めるべきだった。 б 「離すんじゃないわよ。橙!」 いま橙は紫に手を引っ張られ飛んでいる。 橙だって空を飛べないわけではない。 しかし、こんなに高く、こんなに速く飛んだことはなかった。 すごい、山のずっとずっと向こうまで見える! あの山の向こうはああなっていたんだ、あの森はあんなに小っさかったんだ! 橙はまだ見たことの世界に見とれていた。 わたしが一人でこれだけ飛べたら、 きっと藍さまは驚くだろうな。 その日を想像して橙は楽しそうに微笑んだ。 「橙はここまでね。」 そう言うと紫は橙を近くの森まで降りて行き、 高い大きい木の枝に橙を座らせる。 向こうの空が赤く染まり、遠くでわめき声や叫び声が聞こえる。 橙は怖くなった、意気込んで来たものの、 やっぱり藍さまと一緒に家でお留守番していたほうが良かったかな……。 「なぁに?怖くなっちゃったの?橙。」 フフっと紫が笑う。 橙は慌てて表情を隠すと、ぶんぶんと首を横に振った。 怖くない怖くない、自分は八雲の一員として認められなければいけないのだ。 こわくないこわくない! いい子ね、すぐ戻るわ。と紫は橙の頭を撫でてやると、 橙のドキドキ脈打っていた心臓は、少し落ち着いたようだった。 そして紫は、赤く染まった空の方へ向かってまた猛スピードで飛んでいった。 б 人里から離れたその村では、五人ほどの妖怪たちが暴れまわっていた。 村がひとつ焼け落ちていた。 そこには妖怪も住んでいたし、人間も住んでいた。 村人は泣き叫び声を上げて泣いたが、暴れ妖怪は無慈悲にも村人を斬り、 かっ食らっていく。 酷い光景だった。 まるで地獄のようだ。 妖怪はいたずらに殺生を楽しんでいたわけではない。 妖怪たちも必死だった。 この辺りは土壌も弱く、冬場は強く冷え込む。 妖怪も物を食べなくては死ぬのだ。 妖怪は五人とも痩せこけていた。 生きるため必死で戦う。 そういう動機で戦うのは、別に嫌いじゃない。 誰かが空から様子を見ていた紫に気付く。 そして全員が紫の方を向く。 「御機嫌よう。」 紫は声をかけてやる。 「ひいっ!」 一人は紫を見るなりしりもちをつき、 もう一人は転びながら逃げ出す。 立ち向かって来たのは三人だった。 そのうち二人は逃げ腰だが、 もう一人は紫を睨みつけてくる。 リーダーはこいつだろう。 こいつを潰せばこの山賊集団は崩れる。 その妖怪は迷うことなく紫に飛び掛ってくる。 次いでもう一人も、 紫は二人をなぎ倒す。 脚でも折っておけばもう当分悪さはしないだろうが、 紫は息の根を止める。 余計な復讐心に燃え上がり、恩をあだで返されては面倒だ。 紫に切り裂かれた二人の仲間を見て、 出遅れ身構えていたもう一人は震えながら呆然としている。 こいつは逃がしてもよいだろう。 そう思った紫は、今回は橙を連れてきたことを思い出した。 そうだ、こんなちまちました暗い戦いを遠くから見ても面白くないだろう。 「上手く逃げ切ったら許してあげるわ。」 そう紫はもう一人の妖怪ににっこり微笑む。 妖怪は、はっと我に返った様子で、踵を返し全力で紫から離れる。 そしてその後を紫は追いかけていく。 ど派手に弾幕を撒き散らしながら。 ほらほら、橙見てるかしら。 紫はだんだん楽しくなって、妖怪を追い掛け回しながら山をいくつも超えた。 流石に遠くに来てしまった、そろそろ疲れたしもういいか。 紫はスキマに手を突っ込むと妖怪を引っ張り出し、山肌に叩きつけるようにぶん投げた。 б いつの間にかだいぶ遠くまで来てしまっていたようだ。 急いで橙のところへと向かう。 橙はなんて言うだろう? 紫さますごかったよ!かっこよかった! そんな嬉しそうな橙を思い浮かべて顔がほころぶ。 紫は橙のいた辺りまで戻ってくる。 ええっと、どの木だったか。 見つけた。 あの木だ。 しかしそこに橙の姿は無い。 辺りを見回すが橙の姿はなかった。 「橙……?」 ざわざわと不快な感覚が走る。 嫌な感じがした。 どこだ、橙―、どこ行った!! 森の中を枝を振り払ってすすむ、 眠っていた鳥が大慌てで起きだし、森は何事かとざわざわとした雰囲気に包まれる。 紫さま―! 遠くで橙の声がした。 そっちか!紫は急いで声のした方に向かう。 がさがさと草木を掻き分けて進む。 近くまで来たはずだ。 橙、どこ、返事をしなさい 呼びかけても返事は無い。 だが紫は草の茂みの中に橙の緑の帽子を見つけることができた。 そこに居たのか。 眼に飛び込んできたのは、 にわかに信じられない光景だった。 怯えた橙と、長い鍵爪を橙の首筋に当てた、 さっきの逃げた妖怪がいた。 「紫さま…!」 ささやくように小さな震える声でそう言った橙の眼は、 必死で紫に助けを求めていた。 橙はあまりの恐怖に橙は涙を流し、カタカタカタと歯を鳴らしていた。 б 妖怪は心底しまったという顔をしていた。 木の上で遠くを眺めていた橙を見つけたとき、 この妖怪はとんでもない幸運にめぐり合ったと考えただろう。 偶然、可愛い可愛い弱そうな弱そうなエサを見つけたのだから。 ただ、それを八雲紫の式だとは思わなかったのだ。 八雲の式に手を出せば、ただではすまないだろう。 「その子を離せ!命だけは助けてやる!」 紫は焦り叫ぶ。 だが妖怪には分かった。 この式を手放した瞬間、スキマの妖怪はあっというまに俺の首を掻っ切るだろう。 世界は不公平だ。 妖怪というだけで外界から幻想郷と称すこんな狭いところに閉じ込められ、 生きるために食料を調達すればもっと強い妖怪に理不尽に殺される。 たまったものではない。 丁度いいあんたもその理不尽さを味わってみたらいい。 これからの毎日、絶望とともに生きてみたらいい。 やめろ…! ずぶり 紫が言う前に、妖怪は橙の首に鍵爪を突っ込んだ。 橙は痛々しいほどに顔を歪める。 鋭利な爪が、橙の柔らかい皮膚を思い切り突き破る。 橙の首から、鮮血がふきだす。 妖怪は橙の口を押さえていたため、 声を上げることは出来なかった。 うわあああああああああああ!!!!!! 妖怪がそのまま爪を自分の腹に立て、自決しようとする前に、 紫は妖怪の首を蹴り折って殺した。 橙!! 橙!!!! 紫は橙を抱き起こし、必死で呼びかける。 б 藍は魚を煮ていた。 いつもの魚屋の店主が 橙が一人でお使いに来たのでご祝儀を出したつもりなのか、 それとも橙がせがんだのかは分からないが、 橙の買ってきた魚はいつもより新鮮で、大きかった。 この一番おいしそうなやつは橙に食べさせてやろう。 今日は頑張ったからな、 意地悪な正面に座っているぐうたら妖怪がそれをよこせとせがんで来ても 今日は私が守ってやるぞ。 ふふ、っと藍は楽しそうに鼻歌を歌った。 б その晩の永遠亭は大騒ぎだった。 八雲紫というめったに顔を見せない客が、 血まみれになった自分の式を抱え、半ば突撃するようにやってきたのだ。 永遠亭の誰もが夜襲かと思い身構えた。 紫は誰も手をつけられない状態だった。 紫は錯乱しており、止めようとするイナバ達をはねのけ、 奥の部屋で食事をしていた八意永琳を引っ張り出すと、 傷を治せ治せとわめき、薬が無いと言えば、薬棚を片っ端からひっくり返した。 やっとの思いで紫に鎮静剤を打ち、気を失い静かになるころには、 永遠亭はまるで本当に夜襲でも受けた様にめちゃくちゃになっていた。 б 紫は夢を見ていた。 自分の身体がバラバラになって行く夢だ。 胸くそ悪かった。 ハッ…… 妙にリアルだったため、紫は目が覚めても一瞬 自分が夢うつつのどちらにいるのか分からなかった。 嫌な夢だった、身体中いやな汗をかいていて気分が悪い。 ここは――― 少しのあいだ間があって紫は思い出した、なぜ自分がここにいるのかを。 そうだ… 橙!橙は!? 「気付いたようね。」 声のする方を向くと、薬師八意永琳が座っていた。 生唾を飲み込むと、 紫は恐る恐る聞く。 「あの子は、あの子は……。」 焦りで心臓がどんどん速くなっていくのがわかる。 ほんの、ほんの一瞬だけ八意永琳は迷ったような表情を見せ、 静かに言った。 「……だめだった。」 ドクン 心臓の鼓動が一気に跳ね上がり、一瞬全身の血が止まる。 いま、…いま何て… 「だめだったの、もう手遅れだった。」 だめ 頭が一気に真っ白になった。 気付けば彼女の青色と赤色の混ざった服の襟をつかみ上げ、 大声で八意永琳に向かって罵声を浴びせていた。 もう何も頭に無かった。次から次へと出てくる汚い言葉を、 紫は片っ端から無表情の薬師に向かって吐くだけ。 我に返ったのは、何事かと部屋に駆けつけたイナバの一人に後ろから羽交い絞めにされ、 八意永琳から無理やり引き剥がされ、永遠亭の主である蓬莱山輝夜に睨みつけられたときだった。 「人の家であまり騒がないで欲しいわね。  これ以上家を荒らすおつもりなら、今すぐあの子を連れて帰って頂くわ。」 輝夜はそう厳しい表情で言い放つ。 相手が紫といえど、主として輝夜は言った。 あの子― 紫の顔は思い出したように青ざめる。 「あの子は、橙は!!」 「もうだめだったのよ。あなたがここに連れてきたときに、もう………」 「ウソ!そんなの嘘よ!!」 また紫は永琳のほうを睨む。 「こいつが、こいつの言うことなんてウソ!!こんな薮医者の言うこと!!!」 パァン! 「いい加減にしなさい!!!!」 紫は蓬莱山輝夜の平手打ちを食らった。 「私も見たわあの子の傷!!酷い有様だった、諦めるしかなかったのよ!」 紫の血は一気に頭に上った。 諦めるしかなかっただと!? よくも、よくもそんなことが言える!! 後ろで壁に隠れて恐る恐るこちらの様子を伺っていた耳の長いうさぎを見る言った。 「今からあなたの飼ってるウサギを一匹捕まえて、そいつの首をあんたの目の前で掻っ切ってあげるわ。」 あたりにざわっと緊張した空気が流れる。 「それから同じことをもういっぺん言ってみるのね。」 この言葉には流石に輝夜も我慢できなかったようで、 輝夜は紫を思いっきり睨みつけた。 辺りの空気はしんと静まった。 まずい、と皆思った。 その静寂を破ったのは、静かな声だった。 「紫様――?」 誰もがその声の主のほうを見た。 息を切らし、不安と、焦りと、絶望を混ぜたような表情で庭先の塀の上に立っていたのは、 藍だった。 б 一刻ほど前のこと、 藍は二人の帰りを待ちわびていた。 遅い、あまりにも遅すぎる。 とっくに夕食の準備は終わり、さっきまで炊き上がったご飯からもくもくと立っていた湯気が だいぶ薄くなっている。 もしかして二人の身に何かあったのだろうか? まさか。紫様がついておられるのだ。 過ぎた憶測だと思ったが、なぜ帰りが遅いのかやはり気になる。 迎えに行こう。 そう藍は立ち上がり、 藍は二人のにおいを頼りに、森のほうへと向かった。 暗い雑木林の中で、 月の明かりとにおいだけを頼りに見つけたものは――― 見つけたのは、 橙の血だった。 藍は全身の血の気が音を立てて引いていくのを感じた。 そこで何があったか、 したくも無いが想像できた。 二人は――― 眼が廻るのを必死でこらえ、必死に嗅覚だけを研ぎ澄まさせると、 二人のにおいは遠くの蓬莱人の住む竹やぶのほうへと向かっている。 藍は絶望のなかに、必死で希望を見つけようとした。 医者のところへ向かったということは、 その時まだ橙は生きていたということだ。 あの蓬莱人の医者なら… きっと。 希望はあった。 最悪の事態は、 考えなかった。 б 布団に横たわった橙を見て、 狂ったように藍は泣き叫んだ。 紫は沸騰していた血が一気に冷めるのを感じた。 心が押しつぶされそうで、 藍と橙を見ていられなかった。 橙の顔は、必死で恐怖に耐えているような表情だった。 こんな橙の顔、絶対藍には見せたくはなかった。 八意永琳は黙っているが、 橙はもっと酷い表情をしていたんだと思う。 紫が橙の最期に見た、苦悶と激痛と恐怖に押しつぶされた表情。 他人が見ても痛々しさに涙を流すだろう。 もし藍が見たら、 それこそ本当に狂ってしまうかもしれない。 鬼がいると不吉だから――― 橙についていた赤鬼と青鬼を剥がした。 紫は橙がいつも付けていた耳飾りをはずして、 あなたが持っていなさいと 藍に渡した。 そして、橙を棺に入れた。 б 橙を葬ってから数日間、藍は一言も話さず、 何をするにもずっと俯いたままだった。 たまに橙の付けていた金色の耳飾りを力なく眺めるだけ。 ある日、紫が家に帰ると 台所で藍が橙の耳飾りを噛み締めながら床にうずくまって泣いていた。 やりきれなかった。 数ヶ月経ったが 藍の顔に笑顔は戻らない。 食事にも箸をつけず、 夜もほとんど眠っていないようだった。 「いつまでそうやってる気なの。」 紫が喋っても、藍は聞こえているのかいないのか、何も反応を示さない。 まるで、藍まで死んでしまったかのようだった。 ただ、橙の耳飾りを眺めているだけ……。 何を思ったか、 いきなり紫は藍の手の中からその耳飾りをひったくった。 「な…、なにをするんですか!!」 一瞬だった。 藍ははっと気付いたように表情を浮かべ、紫の手をつかむ。 紫はすがりつく藍を振り払うと、耳飾りをスキマの中に放り投げた。 もうどこへ行ったかは分からない。 「い…いや…」 藍の顔は青くなり、うろたえる。 紫は怒鳴った。 「いいかげんにしなさい!」 紫は声を荒げる。 ただ紫は苛立っていた。 「いつまでもそうやって…、死んでしまったものは生き返らないの!!」 死んだように覇気を無くした藍に対してか、 「それを…、式が死んだくらいでいつまでもメソメソと…!」 自分の心の底にあるもやもやに対して。 「橙は、式はあんたの子供なんかじゃないのよ!!!」 だから、自分で、何を言ってしまったのか分からなかった。 その言葉に、藍は主の顔を睨み付けた。 藍の眼には、はっきりと怒りの表情が見て取れた。 式八雲藍が、 主人に対して怒りを見せたのは、 これが初めてだった。 ―б― ―б― ずっと昔、後に八雲藍と呼ばれるきつねは、 人里離れた山の中で生まれた。 そのきつねは、環境に恵まれているわけではなかった。 厳しい冬のあけた春先に、何匹かの兄弟とともに生まれたが、 家族は食べるものが無くすぐに死んでしまい、 自分だけが生き残った。 これからどうすればいいか分からなかった。 悲しみ明け暮れる暇もない。 おちおちしていたら他の動物の餌になってしまう。 まずは食料を探そうとしたが、不思議と腹は減らなかった。 きつねはそのまま、幼少を独りで生きた。 月日は流れ、きつねは子を生んだ。 可愛い子だった。 やっと、長い間欲しくて欲しくてたまらなかった自分の家族を手に入れたのだ。 この子には貧しい思いはさせたくない。 そう思い大切に大切に育てた。 ある日きつねが野ねずみを捕って帰ると、 子供の姿が無かった。 きつねは焦った、 どこへ行った。 きつねは必死で探し回った。 そしてやっと自分の子供を見つけたのは、二日後のことだった。 子供は、他のキツネの餌になっていた。 この頃、キツネも野ねずみも、 皆生きるのに必死だったのだ。 誰も責めることは出来なかった。 きつねは後悔した。 自分の子を守ってやることが出来なかった。 三日三晩子供の骨を舐め続けたが、 元通り生き返るなどということは無かった。 きつねは泣き続けた。 仕方が無かった。 そう思い込んだ。 その後は、子宝に恵まれなかった。 子を身篭ってもすぐに腹の中で死んでしまう。 まるで腹の中の子の命を吸っているように、 自分の中の子が死ぬたび、尾の数が増えていった。 夫はきつねを疫病神とののしった。 そして、 もうきつねは子供を望むまいと決めた。 辛い決断だった。 何年生きたか。 まわりの仲間たちは次々と生まれては死に、生まれては死んだ。 仲間のキツネ達は、何年も生きるきつねのことを不気味がった。 他のキツネ達は彼女のことを冷たくあしらった。 きつねは耐えられなかった。 自分の子を殺した罪悪感もあった。 仲間からは疫病神とささやかれ、巣を追われた。 人間からは災いをもたらす九尾の天狐と恐れられ、山を追われた。 それからきつねはまた独りで生きた。 長い間生きてきて、人間に化けることが出来るようになったきつねは、 山でとった狸や鹿の肉を人間に化け人里へ売り 人間として生活するようになった。 温かさが恋しかった。 人間は優しかった。 貧しくても、腹が減っても人間は仲間を食うなんてことは無かった。 人間の世の中で暮らしたが、誰もが自分を置いて死んでしまった。 そのうち集落に飢饉が到来し、町も村も、人の心も荒んでいった。 きつねはまた山へと帰っていった。 他のキツネたちは彼女の姿を見るなり逃げだした。 そうだ…私は人間の姿をしていたんだ。 元に戻ろうとしたが、 術の解き方を忘れてしまっていた。 かろうじて中途半端に戻ったのは耳と尾っぽだけ。 キツネの言葉も忘れていた。 完全な人間の姿にも、戻れなかった。 もうキツネとしても人間としても生きていけない。 山の中にあった小さな神社の中で、 きつねはまた長い時間ずっと独りで過ごした。 これからずっと一人で生きなければならないと思うと、 心が潰れそうだった。 何年たっただろうか。 久しぶりに外に出てみると気候は落ち着き、穀物もたわわに実り 遠くからは人間の子供の遊び声が聞こえた。 足元にお供え物であろうか、黄色の揚げ物が置いてあった。 人々の生活に余裕が出てきた証拠であろう。 きつねは少し安心した。 しばらく何も口にしていなかった狐は頂くことにした。 初めて口にする味だったが、 美味しかった。 久々に人間の顔を見てみたかったし、人間の食べ物も懐かしかったが みな私の姿を見たら驚き、追い返すだろうと思った。 平和な人間の生活を脅かす気など無いし、傷つきたくも無い。 それならば最初からと、 またきつねは今まで通り独りで過ごす事にした。 それからしばらく経ってである。 八雲紫に出会ったのは。 ―б― 紫が最初に自分の式にしたのは、戦いで負かした妖怪だった。 自分の奴隷になれば命は助けてやる。 別に生きるために式など必要なかったが、 面倒ごとを押し付ける相手が欲しかった。 自分が幻想郷と呼ばれるこの土地に住み着いたのはいつからだろう。 紫はよく覚えていなかった。 自分がいつ生まれ、誰が生んだのかも分からない。 ただ、どこで生まれたかは記憶にある気がする。 覚えているのは薄暗い何も無いもやの中だった。 そして、八雲紫という名前だけ。 誰かがつけたのか、それとも自分で名乗ったも忘れた。 自分は他の妖怪には無い、特別な力を持っている気がした。 当時紫は、適当に人間をさらっては食い散らかしていた。 美味いとは思わなかったが、腹持ちが良かった。 式に命令したことは人間の食いガラを捨てさせることだけ。 放っておくと虫がわいて汚い。 式が腹を空かせば食事を分けてやった。 毎日が退屈だった。 ただ毎日食っては寝るだけ。 自分が何のために生きているのか、分からなかった。 だいぶ長い間そうして暮らしてきたと思う。 ある日、長年こき使ってきた式が死んだ。 そいつの寿命だったのか、それとも弱っていたのか分からないが、 食う気にもならなかったので、捨てた。 気付くと家の中は埃だらけだった。 ごみが溜まり、蜘蛛が巣をつくり、ねずみが走り回った。 新しい式が必要だと思った。 またその辺を歩いている妖怪でも連れてくればいい。 式などただの道具だ。 新しい式は失敗だった。 家事をやらせるつもりだったが、 まったく出来なかった。 まあ、どこを探したって掃除洗濯が得意な妖怪などいないだろう。 使えない式など持っても食い扶持が増えるだけだ。 そう思いすぐに捨てた。 だが次の式は少し違った。 その妖怪を見つけたのは、人間の造った神社の中だった。 神社の中に独りで住んでいたようだった。 б 獣のようだが、人間臭い妖怪だった。 長いあいだ神社に住み着いていたようだが、 紫の家のように汚くはなく、むしろ小奇麗にしていた。 ヘンな妖怪だと思った。 この頃はまだ、人間のような生活をする妖怪は稀だったのだ。 ちょうどいい、紫は思った。 「御機嫌よう。」 紫は声をかける。 妖怪は驚いたようだった。 それはそうだろう、 驚かそうと思い、背後からいきなり声をかけたのだ。 「あなた名前はあるの?」 その頃名前を持っている妖怪など珍しかった。 ただあまりに紫の知る妖怪とは違っていたので、思わず聞いてしまった。 妖怪は人間の真似をしたような名前を言った。 どこまでも人間臭い妖怪だ。 妖怪が人間なんかの真似など、気に食わない。 藍と名前を付けてやる事にした。 意味など無い。ただ藍色の服を着ていたからだ。 高貴な自分の名前にあわせてやった。 この妖怪が気に入るかどうかなど問題ではない。 式になるかと聞くと、はいと頭を下げた。 おもしろい奴だ、 今日からこの妖怪は私のものだ。 こうして、藍は八雲紫の式となった。 б 藍はよく働いた。 掃除も洗濯も上手だった。 本当におかしな妖怪だ。 気付けば紫は人間をあまり食べなくなっていた。 食欲が無くなった訳ではない。 藍のつくる人間の食べ物が、人間よりも美味かったからだ。 ただ腹は空いた。 その時は人をさらって食ったが、量は少しずつ減っていった。 話し相手が恋しかったのか藍はよく話をした。 人間の世間では何々が流行している、人間の食べ物で何々というのがあって美味しかった。 どうでもいい話を嬉しそうに喋った。 紫も藍が話すとは話を聞いてやった。 退屈しのぎに丁度よかった。 なるほど、人間の生活も悪くはない。 紫は次第にそう思い始めていた。 南蛮渡来だという傘は洒落ていて気に入ったし、日に干した布団も気持ちがよかった。 心も、藍に出会ってからは穏やかになったような気がする。 あまり好戦的にもならなくなったし、 人付き合いもするようになった。 б 何年か経ったある日、買い物から帰ってきたと思った藍は、弱った黒猫の妖怪を抱えていた。 脚を怪我しており、空腹で倒れたようだった。 紫はあきれた。 この頃、食べるものが無くて倒れる妖怪は少なくなかった。 弱い妖怪や人間は、腹を空かせた妖怪の餌になった。 ましてわざわざ拾ってきて助けてやるなど、紫にとっては考えられない事だった。 さらに驚いたことに、藍はその化け猫を自分の式にしたいと言い出したのだ。 流石に紫は反対した。 確かに藍には世話になっている。 恐らくこの家の勝手も藍のほうがよく知っている。 だが、この家の主は私なのだ。 しかし珍しく藍は食い下がった。 どうしても、どうしても自分の式にしたいのだと言う。 諦める様子は無かった。 あまりにしつこかったので、 躾がなっていなかったらすぐ追い出すという条件付で紫はしぶしぶ承諾した。 藍は飛び跳ねて喜んだ。 藍は自分の式を橙と名付けた。 理由を聞くと橙色の服を着ているからだそうだ。 自分の名前と同じく色の名前を付けたかったらしい。 それを聞いた紫は可笑しくって笑ってしまった。 藍は驚くほど橙を可愛がった。 まるで自分の子供のように可愛がった。 橙が熱を出せば寝ずに看病し、 友達にいじめられたと聞けば怒鳴りに行った。 橙は藍にも紫にもよく懐いた。 藍と橙を見ていて紫は、心が満たされていくのを感じた。 三人で過ごす時間は楽しかった。 三人で食べる藍の料理は、もっと美味かった。 幸せだった。 ―б― ―б― 藍は、怒っていた。 先ほどの紫の言葉に対してだ。 紫は藍がこれほどまでに激怒した表情を見たことが無かった。 怒りにゆがんだ藍の顔は、痛々しかった。 「式は、橙はあなたの子供じゃない。」 紫は言った。 声にして気付いたが、 自分でも驚くほど冷たい声だった。 その言葉に、藍は初めて紫の前で声を荒げ叫んだ。 「橙は、橙は私の子です!!!!!」 藍は、狂ったように泣き叫んだ。 б 藍は紫が憎かった。橙を守ってやらなかった紫が。 そして悔しかった。橙を守ってやれなかった自分が。 あの日、橙と出会ったとき、 生死をさまよっていた橙は、 ずっと母親に助けを求めていた。 もう振り落とされまいと必死に背中の服をつかむ橙を 藍は死ぬまで守ってやろうと誓った。 確かに自分は橙の主人として、母親として失格かも知れない。 だが、藍は紫の言葉だけは絶対認めるわけにはいかなかった。 こんな私でも、 母親として失格な自分でも、 私自身が橙の母親でないと認めてしまったら 誰が橙の母親になってやるのだ!! いったい誰が弱く幼い橙を守ってやるのだ!!! だが藍にはそれが出来なかった。 橙を守ってやれなかったのだ。 藍は嗚咽を押し殺しながら言った。 「橙が…橙が最期に助けを求めたのは、誰ですか……!!!」 !! 紫は、 心臓をえぐられそうだった。 そうだ―― 考えれば 藍にとって一番辛いのはそのことだった。 たぶん橙にとっても。 橙が最期に助けを求めたのは、恐らく他でもないこの私だったのだ。 藍にとっては、その事が死ぬほど悔しかっただろう。 橙は、最後の最後まで藍が助けに来てくれることを願ったのではないだろうか。 そして、私はただ、ただ橙を見殺しにした。 私が藍から橙を奪ったのだ。 藍は橙がいなくなってからの数ヶ月の間、ずっと独りで耐えてきたのだ。 私と出会い、橙と出会い、やっと長い間の孤独から抜け出した藍から 私は何もかも奪ったのだ。 心臓が、潰れそうだった。 もし今ここで私を殺すことで藍の気が晴れるなら、どんなに楽だろうと思った。 だがもう藍の負った傷は一生癒えることは無いだろう。 藍が負ったのは、時間が癒してくれる切り傷などではなく、 手の施しようの無い、 絶えず血があふれ出す裂傷なのだから。 б 「出て行きます……。身勝手を、お許しください……。」 藍はそう呟くと、マヨヒガを出た。 もう、戻ってはこないだろう。 紫の頭に、はるか昔の記憶がよみがえって来た。 一度だけ、藍がマヨヒガを出て行ったことがある。 藍に戦いの稽古を付けていたときだ。 戦闘に慣れておらずぎこちない藍だったが、倒しても倒しても立ち向かってきた。 しゃくに障ったので、泣くまでいじめてやった。 三日ほど耐えたが音を上げた。 もう、嫌です。と藍が弱音を吐いたので 外に放り出した。 出て行くと言う藍を、嘲るように見送った。 明日の夕方くらいには帰ってくるだろうと高をくくったが、 二日たっても帰ってこなかったので、探しに行った。 山で傷だらけになった藍を見つけた。 どうやら弱った仲間を囲み袋叩きにしている妖怪たちを見つけたので、 ちょっかいを出したのだが、返り討ちにあってしまったらしい。 まったく、あきれたお人よしだ。 だが藍は妖怪を追っ払ってやったと自慢げに語った。 これで紫さまのお役に立てますね、と嬉しそうだった。 昔の紫なら、たかだか三流妖怪に勝ったからと言っていい気になるなと言い放っただろう。 だが紫の口元からは笑みがこぼれていた。 単純に嬉しかったのだ。 こんな感覚は初めてだった。 だが今度藍はもう二度と帰ってこない。 引き止めることも出来ない。 藍はお人よしだから、心の奥底では、やっぱり全部自分が悪いと思っているのだ。 そう思うと、無性に腹が立ち、無性にいたたまれなくなった。 私を、橙を見殺しにした私を、殺したいほど憎めばいい。 だが藍にはそれが出来ないのだ。 藍は優しいから、私と橙を、誰よりも心から愛していたから。 藍は間違いなく橙の母親だった。 私が藍に橙はお前の子ではないと言い放ったとき、 橙の耳飾りをひったくって捨てたとき、 私は本当に藍から何もかもすべてを奪ってしまったのだ。 だから紫は腹が立った。 甘くて、優しくて自分ばっかり損をする藍が腹立たしくて、 なによりそんな藍の優しさに今さら気付いた自分に腹が立った。 「―っ!!!!」 ガッシャーン!!!! 足元のあったちゃぶ台を思い切り蹴飛ばすと、 食器棚の窓を割り、大きな音を立てた。 藍が欲しいとねだり、 紫があちこちから集めてきた家具が、 悲鳴を上げて泣いていた。 もう、元には戻らない。 なにをしようと、完全に崩れ去ったものはもう組み立てられないのだ。 もう昔のような日々は 永遠に戻ってこない……。 気付いたときには、何もが手遅れだった……。 ………………………。 紫は、生まれて初めて、涙を流した。 誰もいない、孤独を泣いた。 三人が、また、 大嫌いだったひとりぼっちに戻ってしまったことを、 泣いた。        FIn