・パロディ成分がかなり含まれています。 ・ある程度公式設定をベースにしていますが、自己解釈が多量に含まれています。 ・話の都合上、取るに足らないオリキャラが出現します。 ・SFっぽいあたりは、都合のいいとこだけ引っ張ってきたエセ科学描写なので  嘘9割と思って読んでくれると助かります。 ・・・ ・・・ 幻想郷が安全であることに気づいてからずいぶん経った。 魔理沙が骨壷の中に入ってからで数えると三十年くらい。 巫女はその間に十回ほど代替わりした。 瀟洒な従者も今はもう居ない。 つまるところ、あれから百年ほどの歳月が経過した。 鈴仙は変わらぬ幻想の空を見上げて溜息をひとつついた。 どこまでも青かった空はもうそこにはなく、秋特有の午後の日差しと 乾燥した大気が、大自然の美しさと容赦の無さを無言で物語る。 初冬の肌寒い風がスカートの下を抜けていく。思わず身震いした鈴仙は、 廊下に出るのをやめて部屋に逃げ込んだ。 どうも最近感傷的でいけない。 永遠亭は百年前と何も変わらずいつも通りだ。 師匠も、姫も、てゐも、生まれては短い生を謳歌して死んでいく兎たちも そして私も。 百年の間に調剤の腕も上がった。薬学の知識も増えた。 だがそれだけ。単調な日々が終わることなく繰り替えされる。 蓬莱人と共に在るということはそういうことなのだろうか。 いや、私の努力不足も多分に影響しているのだろう。そうだ。 例えば人里。人間が怖いのはいまだに治らない私の悪い癖。 例えば兎角同盟。百年を経ても地上の兎たちと心を通わすことに成功していない。 例えば― 月 百年くらい前は、まだ月から私を呼ぶ声が聞こえた。 私以外の兎を呼ぶ声も聞こえた。 それ以外の目的の声を聞いたこともあった。 それが、かなり前から・・・そのことを魔理沙に話した覚えがあるので 多分四十年かそこらだと思うのだが、ともかく、そう、聞こえなくなった。 私は今でも暇があれば月に向かって耳を欹てた。 へにょり耳などと茶化す向きもあるが、普段から耳を伸ばしていたら 聞こえなくてもいいものまで聞こえて鬱陶しいから畳んでいるのだ。 でもこの時ばかりは、受信効率が最大になるように耳をピンと伸ばす。 昔は聞こえた。今は聞こえない。 何も聞こえない。何も。 私の部屋の卓袱台には、湯飲みに二分目くらいしか残っておらず、茶葉の沈殿した 見るからにまずそうな冷めた緑茶が置かれていた。片付け忘れた産物。 私はその液体を口の中に流し込む。不味い。 先ほど感じた肌寒さが不快にいっそうの拍車をかけた。 「・・・・」 だが、その不味さを口いっぱいに受け止めても、 ざらざらした茶葉の残渣が舌の上を転がる異物感を堪能しても、 私の憂鬱さが晴れることはなかった。 座布団を出してそれに乗り、頬杖をついて、鈴仙は考えた。 月兎、地球外生命体にして妖兎、蓬莱人のペット。 そう、蓬莱人のペット。 最近の私のメンタルは自らの立場にまで疑問を投げかける。 私は遠からず死ぬ。主人と比較して相対的に、の話だけれど。 霊夢や魔理沙が死んだように、私も、死ぬ。 あの人形遣いやハクタクがいずれ死ぬように、私も、死ぬ。 仲の良かった、というと語弊があるので訂正しよう、唯一気の許せた人間たちが 死んでしまってから、私はそれを強く意識するようになった。 そして私は罪を背負って生きている。 この罪は生きているうちに償うべきものなのか、死んでからあの閻魔に裁かれるに 任せてしまうべきなのか、どうもよくわからなかった。 昔は呆れるほど楽観していたと思う。 此処が安全なら、隠れたりせず遊んでいればよかったなどと、莫迦げた台詞を吐き 月の存在がさも永遠であるかのように、姫や師匠と同様であるように捕らえていた。 罪滅ぼしをやるなら早いほうがいいだろう、そう考えてはいたが、 いざ実行にうつす気はなかなか沸いてこなかった。 蓬莱人と共に在るということはこういうことなのだろうか。 蓬莱人と共に生活し、蓬莱人のペースに合わせてものごとをこなしているうちに 私はいつの間にか私自信も、永遠の命を手にしているかのような感覚を抱いていた。 死んでいった彼女たちが、それは錯誤にすぎないことに気づかせてくれた。 死人に口無しだが、死は饒舌だ。 私は気づいた。この百年間を無為に過ごした事の罪深さを。 償う対象である月が滅びるに任せていた、自分の浅はかさを。 最近、森の中にある、外の世界の品物を扱っている店に出入りするようになった。 外の世界で、地上人たちが月を相手に何をやっているか知りたかったからだ。 ともかく、本を求めた。立ち読みに精を出している妖怪と顔見知りになったりもした。 結果、私の手元にはいくつかの書物がある。 西洋の文字で表題が彩られた書物、宇宙機と思しき乗り物が表紙になった書物、 いろいろあって、出版時期もこの半世紀くらいのうちバラバラで連続性もなかったが 私はそれらの本から、地上人が月面に恒久基地を作り上げ、自治政府すら 機能させているらしいことを知った。 師匠と姫にもこの話を振ってみたが、まったく興味を示さなかった。 曰く「あっちも博麗大結界みたいに、常識と非常識の結界を作って潜り込んだのよ」 曰く「月が危うくなったから、都ごとかついで外宇宙に逃げ出したんじゃない?」 曰く「まぁ、滅んだところであんな場所、帰りたいとも思わないしね。そうでしょ?」 果たしてそうなのだろうか。それでいいのだろうか。 蓬莱人ではない私は自分に問う。蓬莱人ではない私はそれに答える。 よくない。いいわけがないじゃないか。 逃げるという別れ方は最悪の別れ方だ。 けじめがつかない、故に後ろ髪を引かれる思いがする。 忘れることができない、故にいつまでも悩み続けなくてはならない。 月が地上人に征服された、それはどうやら事実のようだ。 それが幻影の月でなく、本物の月なのははっきりしている。 私が受信したSOSコールがなによりの証拠だ。 そうであるのなら、月人はどうしているのだろう。私が置いてきた彼らは 一体今頃どうなっているのだろう。 私が償うべき対象は今・・・ そこまで考えたところで鈴仙はいったん思考を打ち切った。 座布団とお尻の間に挟まった足が痛くなってきた。正座など長時間続けるものではない。 女の子座りに切り替える。圧迫感はなくなったが、今度は膝関節に苦痛を感じた。 どうも駄目だ。脚を伸ばすしかないらしい。有機系の身体とは不便なものだ。 幽霊や妖精が羨ましい。そんなことを考えつつ、卓袱台から離れて 座布団を枕に仰向けで寝ようとして、ようやく気づいた。 「てゐ?」 襖が半分ほど開かれ、そこからてゐがこちらを覗き込んでいた。 「鈴仙様」 てゐの眼は寂しそうな色をしていた。百年前も今も、てゐの瞳は兎の瞳であり続けた。 百年後にはどうなっているだろう? 「何か、用?」 「鈴仙様、眼が死んでる」 3秒ほどの沈黙の後、私は部屋の一角にある本棚の上の鏡を覗き込んだ。 疲れた顔が現れる。 ひどいものだった。頬杖をついた部分に痕がついて赤くなっているし なにより自分の赤い瞳が、さび付いた金属のような赤銅色になっていた。 一体どれほどの間考え込んでいたのだろう、私は。 一体どれほどの間、てゐは私を眺めていたのだろう。 「・・・は・・・あはは、そうだねてゐ。驚かせてごめんね。ちょっと私―」 私の取り繕うような乾いた言葉を遮って、 てゐは言った。 「鈴仙様、最近ずっと其れ。悩んでるなら行動したほうがいいよ」 「・・・」 「妖怪は肉体より精神のほうが脆いんだから」 てゐは、視線を私から外して、そう呟き、襖を閉めた。 廊下を遠ざかっていく足音だけが私の耳に伝わり、消えた。 怒られてしまった。 予定通り横になるものの、憂鬱さは解消しなかった。 得たのは、気だるさと眠気と、硬い畳に身体が体重で押し付けられる感覚。 不快ではないが快適でもなかった。 帰ろうかな、月。 困難だろう。博麗大結界があるし、うまくそれを突破できても 隠れた月の都を発見するのがまた難しい。そのうえ、月の都が今どこにあるのか 今もまだ存在しているのか、それすら解らないのだ。 帰りたいな、月。 帰れば懲罰ものだ。遅きに過ぎた帰還は月人からしてみれば怒りの対象だろう。 下手をすれば殺されるかもしれない。 恩人と愛する者と、桃源郷を捨ててまで行くべきものだなどとは思えない。 でも、だが、しかし、私は 死というものが身近なのだと知ってしまってから、どうせ死ぬなら天国に行きたいと 地獄に行くのが怖いのだと、そう考えるようになってしまった。 月にいた頃は死など恐れたりしなかった。 死後は何もないと思っていたからだ。何もないなら怖くない。 幻想郷ではそうじゃない。 死後は裁きが待っている。罪深い私など、十中八九地獄行きだろう。 逃れ得ぬ恐怖。怖いのは嫌いだ。 月で懲罰を受けるのと、地獄の沙汰と、どっちがマシだろう? 帰ったところで処刑かもしれない。 帰ったところで都が見つかるとは限らない。 帰ったつもりが地上人に発見されて殺されるかもしれない。 帰ったら生きて戻ってこれないかもしれない。 償却ははやいうちに済ませたほうが罪は軽くて済むのかもしれない。 だが贖罪を済ませて死ねるとは限らないのだ。 月に赴いて死ぬことが無条件で贖罪になるのならいいかもしれないが 私は安寧と安息の地を捨てて、天界に召されるためにのこのこと 死にに行こうなどとは、とても思えなかった。 帰りたいよ、月。 ないものねだり。傲慢で贅沢な悩み。 だが無いからこそ欲する。欲望とはそういうものだ。 それが、一時はあれだけ逃れようと必死だった月であっても。 鈴仙の眼はいつしか、赤銅色から限りなく黒に近いものへと変わり果て、 半開きのそれがじわじわと閉じ、眠りに墜ちつつあった。 どうやって帰ろう、月。 ・・・ ふいに、背後で物音がした気がした。 いや、物音というほどのものではない。空気が動いた、それくらいの僅かな感覚。 それに反応した鈴仙は上体を起こし、周囲の気配を探りに入った。 唐突に声がかけられる。 「帰りたいの?」 その声にはいやというほど聞き覚えがあった。 初めて会ったのは、あの月隠しの騒動の時、巫女と共にやってきた、あいつだ。 「博麗大結界をどう超えるのかしら」 胡散臭い笑みを浮かべた隙間妖怪が、扇子を広げながら、居た。 腕一本にも満たない距離に、その両の眼と、そしてその後ろの隙間の中にある おびただしい数の瞳が位置し、私を凝視しているのだ。 「どう・・・やって?」 背筋に悪寒がする。 こいつの相手をするのは好きではない。 私の能力を持ってしても、考えていることがちっとも読めないからだ。 隙間妖怪は、私の心の内を知ってか知らずか、こう言ってのけた。 「そう。貴方が決心するところまでの一部始終が面白かったから」 クソ、最初から全部見ていたのか。 「どうにかしようと思えばどうにでもなる筈よ。入れたのだから、出られる」 売り言葉に買い言葉で、虚勢を張ってみて、しまったと思った。 強気に出たのでは苛立っていることを悟られてしまうだろう。 紫は嘲って、こう言った。 「自信、無いんでしょう?怖いわよねぇ、どんな罰が待っているか知れないし」 「罰は覚悟の上よ」 駄目だ、これは私の本心じゃない。ヘタクソな虚勢に間違いない。 完敗だ。波長さえ読めればいつもはこんなミスはしないのに。 あるいはてゐなら、易々やってのけるのだろうが。 「言っておくけどね、貴方が来た時と今とじゃ、博麗大結界の強度は  段違いになっているわ。というか昔はそもそも無かったのだけどね。  あの紅いお屋敷の知識人もいろいろ努力していて面白いけど、貴方だったら・・・」 紫の身体が隙間からにゅるりと這い出て、座布団に座っている私に正面から凭れ掛った。 受肉した存在とは思えないほど冷たい腕が、私の首筋にまとわりつき、そのまま 押し倒される。首筋を撫でる冷たい手の感触に、鳥肌が立った。 「ねぇ、どす黒い瞳をしたか弱い兎ちゃん。どうやって、帰るの?」 紫の手は私の胸と太股を撫で、挑発を囁いていた唇が耳元に吐息をかける。 「や・・・」 背筋に強烈な悪寒を感じる。眩暈と吐き気がした。気持ち悪い。 「やめ・・ろ、何して・・・」 私はこれが自分がヨゴされていく過程であることに気づいていた。 怖かった。抵抗しようとしても恐怖がそれを上回って身体に力が入らない。 「弱った妖怪は抵抗らしい抵抗もできずゆかりんに食べられちゃいました。おわり」 食べる。終わる。 その言葉で、数時間前に考えていた死後の顛末の予測を思い出した。 まだ死ねない、地獄は御免だ。だから月へ戻るんだ! 「こ・・・のッ!!」 私は渾身の力で紫の腕を払いのけ、跳躍し、壁を蹴って三角跳びをこなし、 卓袱台を挟んで紫の反対側に着地した。 ブレザーのポケットからスペルカードを取り出し、それを紫に向かって突きつけ、叫ぶ。 「馬鹿にするな!私が地上人の結界ひとつ破れないとでも思うか!」 虚勢は同じだが、さっきより気合を入れた。眼はもうばっちり赤いはずだ。 紫の波長は相変わらず読めなかったが、これ以上私を穢すつもりなのなら 弾幕で白黒つけてやる。 「あらあら、元気になったわね。ゆかりん可愛い女の子が好きなのに残念だわ」 扇子で口元を隠しながら紫はそう言った。 「博麗大結界は常識と非常識、幻想と現実の境界よ。貴方は常識的で現実の存在かしら?」 虚勢でかまわない。嘘八百でかまわない。私は以前から考えていた脱出法を 心の中から無造作に取り出して、ぶちまけた。 「幻想郷では日が昇り月が沈む。熱があり可視光があり電磁波があり重力波がある。  完全な閉鎖空間なんかじゃない。波長を読み取れる私にはそれが解る!」 一瞬、紫が眉を顰めたように見えた。それは見落としなどではなかったが 私の考えに驚嘆したというものでもなかったようだ。 「そうね、優曇華。私の弟子だけのことはあるわ」 振り向くと、そこでは、てゐが閉めていったはずの襖が開き、師匠が立っていたのだ。 「お久しぶりかしら、八意"Blackjack"永琳」 「私は患者に高額の治療費を請求したりはしないわよ」 師匠は紫を前にしても、いつものポーカーフェイスで、私のように激高などしなかった。 「八雲紫、貴方は数字には強いけど形而上学に弱いわ。この娘は人を狂わすのよ?」 師匠はそう言ってのけた。 それを聞いた紫はさも楽しそうに返答する。 「もしかして唯我論かしら?」 「それも面白いわ。人も妖怪も妖精も閻魔も、幻想郷の全てを狂わせて  『優曇華は月に行った』と認識させてしまえば、それが現実になるわ」 私はそれを聞いてぞっとした。閻魔すら狂わす能力など、私は持ち合わせていないし 仮にそれが実行できたとしても、幻想郷から私の居場所はなくなってしまう。 「面白いこと言うわねぇ・・・でもそれ本気じゃないんでしょ」 それを聞いた紫はからからと笑っていた。楽しそうだった。 妙なことだが、師匠もいつの間にか無表情を解き、少し楽しそうな表情をしていた。 「本当のところはどうなの?」 「それは」 師匠の顔が私を向いた。いつものやさしい表情だった。 「優曇華?貴方の考えていることと同じだと思うわ。説明してやりなさい」 ・・・ 私は師匠と縁側に座っていた。 私の淹れた緑茶は、さっきの飲み残しのように苦くない上出来だった。 それを啜りながら、師匠は月を眺めていた。 私も一緒になって月を眺めた。師匠は私の髪を撫でた。私は師匠の思うままに任せた。 お茶菓子と魔法瓶の中身が尽きたところで、師匠は私に微笑みかけながら 自分の膝をポンポンと叩いた。私は少し気恥ずかしかったが、素直に甘えてみた。 師匠の膝枕はとても暖かかった。紫の体温とは比較にならないほどに。 それを師匠に伝えたら「それは貴方を脅かすためにわざわざ下げてたのよ」と。 考えてみればそうかもしれない。彼女は冬眠するらしいから変温動物なのだろう。 あんなに冷たかったら今頃凍死しているはずだ。 師匠は何も言わず私の髪を撫で、背中を擦ってくれた。 私が月に帰ろうとしていることには何ひとつ触れなかった。 私の師匠は優しかった。 私は師匠が大好きだ。 ・・・ 幻想郷が一種の閉鎖系だとしよう。幻想郷内部に外部からの情報が流入し続ける反面、 情報が内から外に出ないというのであれば、情報保存の法則、ユニタリ性に反する。 幻想となった文物が幻想郷にやってくる、外の世界の人間がやってきて、喰われる、 それらはすべて情報の吸収だ。 幻想郷が量子力学的なパラドックスに陥っていないのであれば、どこかで、 外から吸収した情報に等しいだけ、幻想郷から外への情報の放出がなければならない。 外の世界の人間は、博麗神社に辿りつけば元の世界に戻して貰えるという。 博麗大結界は少なくとも博麗神社からは内部情報を外部に放出することができるのだ。 だが入ってきた人間の一部をそのまま逃すだけでは明らかに不足だろう。 幻想世界に入った情報、それと等価程度の情報の流出がどこかにあるはず。 それに乗ることができれば、幻想郷の外部に出ることができるのかもしれない。 鈴仙の回答はそんなものだった。 師匠も、そして紫も、この答えに満足したようであった。 そして、紫は去り際、それに対する褒賞を残していった。 「幻想郷から運よく脱出できた人間は、体験談を外で話して物狂い扱いされるのよ」 鈴仙は眼から鱗が落ちる思いだった。 確かに、幻想郷にやってきた人間は、幻想郷での体験を記憶として外部へ持ち帰る。 入るものと出るもので、情報量に差があるようにも思えるが 「幻想」となった、イレギュラーな情報の集合を「現物」である人間が常識世界で 話し広める行為は、情報の密度・強度が、外部からの流入とつりあいが取れるほどに 強いのかもしれない。 それでユニタリ性が維持されているというのなら・・・ 「ふふ、それじゃあね」 秘密を呆気なく教えた紫は、次の瞬間には隙間もろともどこかへ去っていた。 ・・・ 出口さえ解ればあとは簡単だ。 私という情報を、外の人間の中に入れて持ち出してしまえばいい。 波長で人を狂わせる私にはそれができるはずだった。 私は、自分自身を存在情報に変換し、波動となり、人間の身体の中に潜りこむ。 素粒子の振動へ情報を伝播させ、保存した情報を使って 結界の外に出てから月兎としての肉体を再構築するのだ。 自分自身がそのまま大結界の外に出るのは非現実的だろう。 博麗の巫女がそれを許さないし、無理に出たところで、今の私は非常識な存在だ。 矛盾によって応力が生じ、最悪、存在が破壊されかねない。 媒体を解さずに存在情報を電磁波として大結界を貫通させる手もあるが その場合は情報がどこに行き着くか解らない。最悪、再生できないまま エネルギー密度を拡散させながら宇宙空間の広範囲に散らばって元に戻れなくなるだろう。 それに対して、素粒子の振動を利用して情報を量子ビットに変換してしまえば 私は「存在している」「存在していない」の重ね合わせの状態になることができ 現実と幻想の境界を超える部分での問題は解決できるのだ。 難点は、私という存在すべては、人間に仕舞えるほど 少ない情報量でできてはいない、ということだった。 宿主の人間にも、巫女にも感づかれず、宿主の生態活動を妨げない領域へ 収まるだけの大きさに、自分自身をダウンサイジングしなければならない。 それも私が目的を果たせる存在に再構築できるだけの情報量を持ちあわせつつ、だ。 ・・・ 神社の境内に二人いた。 「白昼夢みたいだったな。怖い目にも遭ったけれど、得がたい経験だった」 幻想郷に相応しくない服装をした、壮年の男性が、巫女と会話をしていた。 「やりなおす決心ができたよ、元の世界に戻ってもまた頑張れそうだ」 「そう、良かった。でもここのことはすぐ忘れたほうがいいわ。白昼夢だと考えて」 巫女は事務的に術式を構築する。男性は光に包まれ、博麗大結界を超えようとしていた。 「そうしたいところだね。だが紅白のお嬢さん、君への恩だけは忘れない。ありがとう―」 声がだんだん先細りに小さくなり、同時に光に包まれた男性の姿も消えた。 巫女は一仕事終えたというように溜息を吐き、伸びをして、縁側に戻った。 そこには彼女が食べていたはずの煎餅がまだ残っているはずだったのだが、木製の 鉢のような皿には既に煎餅は残っておらず、かわりに金平糖がなみなみと盛られ 隙間妖怪がぼりぼりとそれを喰っているのだった。 巫女は、先ほどのものとは明らかに異質の、呆れたような溜息を吐き、あたかも 株主総会で総会屋にうんざりする代表取締役のような顔をして、尋ねた。 「あの男に何を仕込んだの」 「可愛い娘」 紫はそれだけ言って、金平糖にまた手を伸ばした。 巫女もそれ以上何も言わず、茶を淹れ、一緒になって噛み砕く快感のある甘味を味わった。 何代目になろうが、博麗の巫女の生態は同じだった。 ただし昔のと違って胸が大きかった。紫は隣でたゆんとするそれを見て舌打ちした。 ・・・ 「貴方、夕食用に牛のステーキを買っておいたんだけど」 「そいつは嬉しいな。最近は合成肉ばかりだからな」 「違うわよ、それが無いの」 「無い?」 「冷蔵庫に仕舞っておいたのよ。貴方知らないかしら・・・」 「私が食い意地の張った人間なのは認めるが、四人分も喰えんよ・・・」 「そうよねぇ・・・料理油はそのままだし・・・あら、お醤油も空になってる」 ・・・ すぐ近くに有機物が豊富にあって助かった。 身体の再構築は思ったよりスムーズに、感づかれることなく、うまくいった。 最悪の場合はあの男の身体をそのまま乗っ取るかと考えていたが 彼らの住居には人間の食糧として、解体された多種多様な動物の肉が山とあったのだ。 自分の身体ひとつ再生するくらい、造作もなかった。 建物の間の暗がりで身体を点検してみた。 私は何者か・・・レイセン、月の兎、逃亡者にして罪人。 私の目的は・・・贖罪のため月に戻ること。 私の能力・・・人を狂わし波長を操る・・・OK、すべて視えるし、掴める。問題ない。 よし。これだけ解っていれば当面は充分だ。 何か大切なことを忘れている気もしたが、思い出せないので考えないことにした。 ・・・ 「わすれないでね、鈴仙様」 「わかってるよ、てゐ」 「貴方は永遠に私のペットよ、因幡」 「仰せの通りに、姫様」 「いつまでも待ってるから、焦らないのよ。優曇華」 「はい、師匠」 もう失うのは怖くない。 待っていてくれる人がいる。私を私たらしめてくれる人がいる。 だから私はもう怖がらない。いかなる仕打ちが待っていようと月に戻ろう。 いかなる道筋になろうと、必ず目的を成し遂げよう。 そう、心に誓った。 ・・・ 立ち上がる。身が軽く、そして五感がはっきりしていた。異質な生命体の中で どっちつかずの存在の状態で休眠していた状態とはまるで違う。 自分自身を取り戻した気がした。 ―自分自身?そういえば以前の自分はどんな存在だったのだっけ? そんな疑問が脳裏をかすめたが、やるべきことを思い出し、すぐ飛ぶ事に集中した。 夜空は雑多な電磁波で埋め尽くされていた。鈴仙はそれらが、地上人の交信波であると すぐに理解した。 地上人の眼をくらますため、すべての電磁的・熱的反射を受けないように 自分自身の位相をずらし、くらませ、月しか見えない夜空へと一気に駆け上った。 地上は明るすぎて夜空には月しか見えない。以前はこんな光景ではなかったのだが・・・ ―以前。さっきからなんだろう?私はさっきまで何処か別の場所に? ・・・ 鈴仙は幻想郷を出る時に罪を重ねてしまった。 てゐにだけ、嘘をついてしまったのだった。 無理に存在情報のダウンサイジングをするのなら、記憶など無駄なものは真っ先に 排除せざるを得ない。 鈴仙はレイセンに戻り、そしてレイセンですらなくなった。 永琳と輝夜はその頭脳で既に理解に達していて、帰ったら100年かけて覚え直させる などとまで言ってのけたが、てゐにだけは内緒だった。 あの子は悲しむ。兎は寂しがり屋だから、三人で口裏を合わせて嘘をつくことにした。 良い点もあった。地上で経験した記憶がすっかり消えてしまえば、 何をされようと、輝夜と永琳に関する情報が漏れる心配はない。 それは目標を果たすことしか考えられない、記憶を捨てた兎少女であった。 僅かに、紅い眼と、皺のある耳と、長い髪だけが、面影として残っているほかは もう鈴仙・優曇華院・イナバといえるものではなかった。 ・・・ 姿を消したうえで、酔っ払って一人で歩いた男から帽子を奪った。 なんだか罪滅ぼしのために盗みを繰り返しているので本末転倒にも思えたが これでひとまずは、耳を隠すことができる。折りたたんでおけばいいのだから 地上の兎のとは違って便利である。 ただ、この状態では感度が悪く、周辺の波を"視る"ことができなかったが 地上にいる時間はそう長いものではないので、大した問題とは思わなかった。 満月まで待てばいい。そうすれば、月と地上を行き来する扉が開く。 それに乗ってしまえば、あとは一気に月面だ。見慣れた月面、あの無機質な世界に 戻って、そして、生存者がいるかどうか探すのだ。 満月まであと四日、本当なら満月その日に"実行"したかったが、寄生させてくれる 対象がそうは居ないのだから、仕方がなかった。 四日の間どうしよう、地上人の残飯でも漁ってみるか――そんなことを考えながら なんの気なしに夜空を見上げた。そこには満ちつつある月があるはずだった。 そう、あるはずだったのだ。 ・・・ 気圧と温度が急激に下がっていく。 地平線の彼方が徐々に青く明るくなっていくのがわかった。地平線に太陽光が 遮蔽されない高度まで上がってきたのだ。 無論、レイセンはそのような事で動じたりしない。月兎はそもそも月面でも生きられる。 太陽の放射線が直に降り注ぐ月面の環境は、宇宙空間と大して変わらないのだ。 成層圏や亜宇宙に来たくらいでどうなるものではない。 結局、レイセンは月が満ちるのを待たずに地球を発った。 そうせざるを得なかった。月に作られた地上人の施設、軌道エレベータと オービタル・リングなどが、月の欠けた部分をも照らし出し、あるいは満ちた部分に影を 落としていた。これでは満月など発生するわけがない。 やむなく自力で月を目指すことにしたものの、満月の扉を使えないとなれば 第二宇宙速度まで加速しなければならない。 非現実存在である自分を維持するのに膨大なエネルギーを使いながら、 なおかつそこまで加速するのは計算上ギリギリであった。 その時だった。 何か真っ赤に燃え盛るものが自分の左方を物凄い勢いで通過していった。 レイセンは僅かにしか残っていない大気にあっても、なおその衝撃波で吹き飛ばされた。 舌打ちする。すぐ術式を構築しなおして、また重力に逆らって上昇を続けた。 さっきの燃え盛るものが不安だったが、通過しただけで追いかけてくる気配はなかった。 どうやら隕石か、もしくは地上人の降下船らしい。 いつまでもあんなものに気を取られてはいられない。レイセンは先を急ぐことにした。 西には陽光がきらめき、地上を金色に照らし出していた。 ・・・ そいつは気配もなく、ただ漂っていた。 正確にはそいつらというべきかもしれない。そいつはその中のひとつであり 地球と月の間にある軌道、航路から離れた場所に、ただ放置され 「その時」が来るのを、じっと待っていた。 そいつを作ったものを含め、そいつが「その時」を迎えることを 誰も期待してはいなかった。ただそいつが存在しているだけで 誰もが平穏と安寧を約束されるはずだった。 漂いだしてから十数年目のその日、そいつのセンサーに、電波が届いた。 関係のない電波など日常茶飯事に受け流している。地球と月の間の 双方向通信は膨大だ。 ただ、そのときの電波には、そいつの起動用の暗号コードが含まれていた。 ・・・ レイセンは背筋に表現しがたい悪寒を感じた。以前どこかで感じたことのある悪寒だった。 それがどこであったのかは、消えてしまった記憶に含まれていなかったが、わずかに 残った記憶の切れ端から、レイセンは、即座に、それが誰かに見られているときのものと 理解した。自分は監視されている、それもどこか近い位置の、敵意を持った者から。 ・・・ 陽光の当たる面と影になる面での温度差が数百度にもなる極限状況でも そいつの外部耐熱装甲は、中の重要な電子機材を劣化させるようなことはなかった。 それらは30年前に設計され、20年前に生産され、10年前に生産が終了した機材であり 十年後にそいつと交代するために、今頃は「次」の開発が大詰めになっている頃だろう。 だがそんなことはどうでもいいかというように、古びた機器は精密時計のように動き出す。 十数年も沈黙していた電装品が一瞬で立ち上がり、センサーを起動して指令された 宙域へレーダーを向け、強力に捜索し、得られたデータが迅速に処理されていく。 同時に、冷却されたシーカーヘッドが赤外線検知を、重力場センサーが重力場による 捜索を開始した。 レーダーの反応は微弱だが、重力場センサーに尋常ならざる反応があった。 しかも、反応は月に向けてゆっくりと移動している。 そいつは、すぐに質問信号を機首のIFFアンテナから反応源へ向けて送信する。 検知位置を、誤差を計算して最大遠距離と見積もった場合の送信時間が経過しても、 また5回の送信の後でも、やはり反応は沈黙したままだった。 それらの情報を統合した結果、そいつの中枢システムは結論を出した。 "Contact is hostile" リアクション・コントロール・システムがガスを噴出させ、姿勢制御を開始し、 後部に搭載されたロケットノズルのカバーが火薬ボルトで吹き飛ばされた。 一瞬送れて、水素燃料がノズルの中で核融合反応を目にも留まらぬ速さで連発し その核反応エネルギーの爆風に乗るかたちで、そいつは猛烈に突進しはじめた。 ・・・ 遠くで何か光った気がした。次いで、その光は光度を増しながら近づいてくる。 そいつは見たことのない波長の光だった。レイセンはさっきの悪寒の正体がこいつだと 本能的に察知した。 「気付かれた?」 レイセンは、限られたエネルギーを遮蔽に配分して、自らの波長をずらし 電波・赤外線に対して透明化したつもりであった。 しかし、幻想存在である彼女が現実空間で空を飛ぶ矛盾を回避するために用いる 莫大なエネルギー、そしてそれを担保する縮退された情報と物質の存在は そこにあるには不釣合いなほどの重力場を発生させ、空間をゆがめていたのだ。 レイセンは必死になって逃れようとした。追ってくる禍々しい光から。 一足でもはやく月に到達しようとした。だがレイセンの力ではこれが限界のようだった。 いびつな光に彩られた月はだいぶ大きく見えるところまできていたが、まだ遠い。 あいつが追いかけてくる恐怖がレイセンの心を揺さぶった。 あいつは何者だろう。忌むべき地上人の手先だろうか。 いや、私はなぜ地上人に追われなければならないのだ。 私は罪を償いに行くだけなのに。 時間の感覚が曖昧になっていく。レイセンはただ恐怖と戦った。 別のことを考えて恐怖から逃避したかったが、記憶を切り捨ててしまったせいで ただいたずらに自分が過去何をしたか思い出そうとするしかなく、だが何も思い出せず、 何も思い出せないのに自分は罪を償いに行こうとしていることに疑問すら抱きはじめた。 ・・・ = Target relative speed 1500km/h Present acceleration 4G Engage range mark 5000km - Count down mark = Engage Count up mark Mastar arm is on - Posture control start ARM photon torpedo select 1 and 2 and 3 Release count down mark = Target lock Weapon 1 release - Confirmation Next count mark = Weapon 2 release - Confirmation Next count mark = Weapon 3 release - Confirmation No weapons - Posture control start Secession mode Mastar ARM is off Mode NAV Target relative speed -684km/h Present acceleration 8G = Weapon 1 lose Auto destruction - Weapon 2 lose Auto destruction - Weapon 3 success = Count up over ・・・ 要するにそいつは、レイセンに向けて光子魚雷を3回も発射してきた。 レイセンは電磁的な欺瞞と軌道変更で1.2発目の攻撃を回避したが、 反物質による猛烈な爆発の放射線を防御しきるのはムリがあった。 感覚がなくなり、視界がブラックアウトした。電磁パルスの影響で波を視ることも 難しくなり、3発目を避けることができなかった。 至近距離で爆発したその光子魚雷は、レイセンの身体を照らし、焼き、蒸発させ、 そして吹き飛ばして、レイセンだったものを、本来意図していた軌道から逸脱させた。 意識を失ったレイセンがそれに気づくことはなかった。 ・・・ 結構掛かりますね そうね。いつになったら帰ってくるのかしらね ・・・ どれだけ時間が経ったろう。 レイセンは自分の身体が凍り付いていることを知覚した。 ひどく寒く、そして暗かった。一体何があったのか思い出そうとしたら、悪夢を思い出し 恐怖に苛まれ、今の状況がいっそう恐ろしく思えてならなかった。 覚えていることがあった。自分は月へ行こうとしていたのだ。 幻想郷から這い出て、贖罪を行い、師匠や姫、てゐたちと一緒に平穏な暮らしに 戻れるように、月へ行こうとしていたのだ。 え? レイセンは自分がなぜそんなことを覚えているのか理解できず混乱した。 すべての記憶情報を消して外の世界に飛び出し、あの宇宙船に殺されかけたことも 覚えているのに、同時に幻想郷の記憶があった。 おかしい、こんなことはありえない。ありえないはずだ。 ・・・ いまだに頭は混乱していたが、とりあえず現状を探ろうともがいた。 身体が動くかどうかチェックしてみたが、筋肉が凍り付いているらしく、うまく動かなかった。 レイセンは奇妙な感覚を覚えた。月面でも宇宙でも普通に動けたこの月兎の身体が 今は凍り付いている。 そんなはずはないのに、一体なぜだろう? さらに時間をかけて、どうにか耳をひろげてみた。片方だけ、それも不完全な状態でしか 残ってはいなかったが、それでもどうにか周囲の状況を把握しようともがいた。 レイセンは愕然とした。自分が太陽光線をほとんど受けていないことに気づいたのだ。 一体これはどういうことだろう。冷蔵庫の中にでも閉じ込められたのだろうか。 地上人に捕らわれたのではないかというその想像は、一瞬後に否定されることになった。 レイセンは自分がいかなる床にも面しておらず、拘束もされていないと知ったからだ。 となれば、自分は宇宙空間のどこかで、太陽光を浴びない場所を浮遊していることになる。 それは、何処だろう? 傷ついた耳を精一杯に伸ばして、レイセンは周囲の電波を探った。 太陽でなくとも近傍の恒星、パルサーなどの位置は電波で解る。それが把握できれば 自分のおおよその位置は理解できるのだ。 ・・・ レイセンの身体は光子魚雷のエネルギーによって3割を失いながらも、第二宇宙速度のまま 地球軌道を離脱し、一度はその加速で太陽軌道から逃れるような軌道を描いた。 だが、その加速は第三宇宙速度、太陽系脱出速度には及ばなかったため、太陽の重力で 引き戻され、長い長い時間をかけて太陽近傍まで引き戻された。 水星よりも内側へ至ったレイセンの身体は、黒こげだった表面を更に焼かれたが 幸運にも太陽に落下するようなことはなく、スイングバイによって更なる加速をつけ、 ほぼ直角に吹き飛ばされた。 更に長い時間の末、地球軌道を超え、アステロイドベルトを通過し、木星の重力に捕まる こともなくレイセンの身体は移動を続けた。 本来なら彗星のように、太陽を基点とした極端な楕円軌道を永久に続けるはずだった。 ・・・ レイセンは放心していた。 ここはもう太陽系ではなかった。 一番近い恒星はやはり太陽だったが、冥王星の軌道より遥か彼方まで来ており そしてなおも遠ざかっていた。おそらく1光年は離れただろう。 レイセンは運悪く、海王星で二度目のスイングバイをしてしまっていたのだ。 第三宇宙速度、少なく見積もって秒速16.7km。レイセンは自分の今の速度がおそらく 秒速20km程度だろうと見当をつけた。 毎秒20km? 光速は秒速30万kmだ。 1光年だと大雑把にいって9.5兆kmになる。 レイセンの速度の毎秒20kmは年間25億9200万kmにしかならない。 3500年以上はかかる計算だ。 レイセンは35世紀もの間、凍りついて眠っていたことになる。 仮に同じ速度で今すぐ戻ったとしてもしめて7000年後。 師匠は、姫は、てゐは、幻想郷はそれでもまだ存在しているだろうか。 は・・・はは・・・ あまりにスケールの違う時間が、絶望や悲観といったものを通り越して レイセンの頭脳を刺激した。 月兎が、誰もいない57世紀の深宇宙を浮遊している今の状況が むしろふざけた冗談に思えてきたのだ。 そして記憶を取り戻した理由を理解した。 何も覚えていなければ、使命を果たせない焦燥感だけしか感じない。 自分が苦しむには、苦しんで償うには、幻想郷の記憶が必要だ。 思い出したのは必然だったのだ。 一光年という区切りのいい時間、やけに都合よく進んだスイングバイ。 きっとあの閻魔が、何かしらのかたちで干渉したのだろう。 『今が贖罪の時だ』という声が、やけにクリアに頭の中で再生された。 それが正常な思考に基づくものか、或いは閻魔が自分の居る宙域に 放った情報の中に入っていたものなのか、判別する気も起こらなかった。 涙は出ない。絶対零度に近い極限環境だし、涙腺などとっくの昔に破壊されていた。 おそらく眼球と視神経ごと。耳と脳の一部は機能しても、身体の大部分は動かなかったし 真っ暗で寒いのはいつまで経っても変わらなかった。 本当なら満面の星空の中を泳いでいるはずなのだが、レイセンはそれを視ることはできない。 ただ、傷ついた耳から、おおよその恒星の位置を知るだけだ。 シリウスが、カノープスが、プロキオンが、ベテルギウスが、そして太陽が。 位置は解っても、視ることはできないのだ。 ただ暗黒の中、自分が住み慣れた場所から永久に遠ざかっていくのを知ることだけが レイセンに許されたただひとつの行動であった。 師匠、姫、てゐ、ごめんなさい。約束破っちゃった。 ・・・ ・・ ・ 極低温で代謝が低く抑えられたまま、彼女は悠久の時間を飛んでいく。 自分が生きているのか死んでいるのかも解らないで、何時までも、何処までも、飛んでいく。 まるで蓬莱人のように。 ・・・ 「つまり投げっぱなしということですか」 「そう、宇宙の彼方まで投げっぱなし。それはそれは残酷な話ですわ」