それは一閃。 「魔理沙だからに決まってるでしょ!!」 ぱんっ 静かな図書館に、頬を叩く乾いた音が響き渡った。 咲夜が魔理沙の頬を張ったのだ。 叩かれた魔理沙の顔は咲夜の出した手と反対方向に向き その白い頬はうっすら紅くなっていた。 一方の咲夜は、魔理沙を叩いた手を戻すでもなく、そのまま 息を切らせ、困惑したような表情を浮かべつつ、 魔理沙を凝視していた。 ややあって、魔理沙が自らの手を頬にやる。 俯いていても、目が涙で滲んでいるのがありありと解る。 突然で理不尽で一方的な暴力に対する抗議の視線。 それは「痛い」と無言で訴えていた。 咲夜は自分が何をしているのか理解できなかった。 目の前の魔理沙の姿に気をとられて動転していた。 魔理沙が泣いている。その原因は自分にある。 あれ?なぜ私は魔理沙を引っ叩いたのだろう? 完全で瀟洒なはずの咲夜には、それが理解できない。 ただ衝動に任せて、子供のように、魔理沙に手を出してしまった。 何がいけなかったのだ、何が。思い出せ。思い出すんだ。 ・・・ 今日も今日とて魔理沙は図書館に来る。 何が書いてあるのか解らない本でも面白がって読みに来る。 図書館の主に鼠と謗られようが、館の主に見つからないよう 神経をとがらせながらであっても、読書のために彼女は来る。 魔法使いの探究心を満足させる、ただそれだけのために。 咲夜はそんな魔理沙が妙に気に入っていた。 図書館に出入りしている魔理沙を見逃してやったり 時には茶を淹れてやったりもした。 最近では仕事の合間に、来ている魔理沙を見つけては 他愛のない会話をするようになっていた。 他の人間とうまくやっていくことはもう諦めた少女。 忌み嫌われた能力を悪魔の元で開花させ、絶好調にある従者。 だが、完全で瀟洒とすら謳われたとしても、人間がたった一人、 悪魔の館で生きていて、寂しくないわけがない。 そこに丁度よくやってきた魔法使いの少女。 自分の能力に恐怖も憎悪も抱かず、あまつさえ自分を倒した少女。 小憎らしい性格だがとっつきやすい、自分よりも幼い少女。 連日やってくる魔理沙の存在は、咲夜の心の乾きを癒すに十分だった。 ・・・ ――そうだ。魔理沙がこう言ったのだ。 「なんでお前がそんなこと言うんだ?」 些細な一言。 それはさも、うざったそうな、小言を言う母親に反抗する 娘のような態度だった。 咲夜は魔理沙にこう言っていた。 「あんまり遅くまで遊んでないで、早く帰りなさいね」 だからやってしまった。 自分は魔理沙の姉でも母親でもないのに、保護者などではないのに、 いつの間にかそんな気分になっていたのだ。 驕り。だが気づいた時は遅い。咲夜の大事な大事な可愛い魔理沙は 自分の驕りのせいで、こんなに悲しそうな顔をしている。 図書館の沈黙はしばらく続いた。 沈黙を破ったのは魔理沙だった。 それまで涙目で咲夜を見上げていた魔理沙の顔が、悲しそうに 歪んだ途端、それまで抑えられていた涙がぽろぽろとこぼれだし それを拭うために魔理沙は片手の袖で目をこする。 それでも涙は止まらない。 魔理沙は両手を使って涙を拭う。止まらない。 少女の喉から痙攣した呼気が漏れ出す。不可逆的な。 そして魔理沙は消え入りそうな小さな声でこう述べた。 「ひどいよ、咲夜」 そこから先はしゃくりあげて泣く魔理沙しかいなかった。 いつもの身勝手で奔放な魔理沙はそこにはいなかった。 そこにいるのは、どこにでもいるような、叱られて泣く子供であり 咲夜は魔理沙が初めて見せるその少女の鏡とでもいうべき反応に 何か得体の知れない快楽を感じていた。 本当ならすぐに魔理沙を抱きしめて背中を擦り、謝罪と慰めの 言葉を連ねてあやすべきなのだろう、それは解っている。 だが自分の身体はいっこうに硬直したままだ。 泣きじゃくる魔理沙を前にして、そう、咲夜は、 悦楽を感じていた。 いつもの魔理沙なら何をするんだと食ってかかりそうなものだが 魔理沙はあえてそうしない。ただ泣くだけ。 これが何を意味するだろうか? 罪悪感や交友関係の崩壊といったネガティヴな視点は 既に咲夜の中にはない。 ただあるのは、咲夜が魔理沙に依存していたのと同じように 魔理沙も咲夜に心を許していたのだろうという確信と、 そうであるのなら魔理沙の心は自分のものにできるという推論。 そうだ。この薄幸の少女は、災いから逃れるために悪魔の館を選んだ。 それが結果的に、真っ当な人間性を失わせたとしてもおかしくなどない。 「魔理沙」 ようやく咲夜が口を開いた。 その声に、魔理沙は身体を震わせ、怯えた眼で咲夜を見る。 「ごめんね、ついカッとなっちゃった」 咲夜が魔理沙の小さな身体をそっと抱いた。 温もり。小柄な魔理沙に似合わない体温。きっと泣いていたからだろう。 「さ・・・くや・・・っ・・・」 「いきなり叩いたりして、びっくりしたでしょ。ごめんなさい」 咲夜は魔理沙の金髪の癖毛をやさしく撫でる。 魔理沙の身体の震えは、それを続けるうちに次第におさまっていった。 咲夜は、魔理沙が十分に落ち着くのを見計らい、これ以上ないほど 優しい声を使って、あのね、と前置きをして、言った。 「魔理沙があんまり可愛いから、ついお姉さんぶっちゃった」 それを聞いた魔理沙は、落ち着いてきたものの未だ安定しない呼吸を 必死に制御して、何か言葉にしようとしては失敗し、咲夜を見上げて また涙をぽろぽろとこぼした。咲夜の名を呼びながら。 魔理沙が、咲夜を呼ぶ名前の後ろに姉を意味する言葉を付けるまで さして時間はかからなかったという。 魔理沙は足しげく図書館に通い、咲夜は姉を演じ、 魔理沙は甘え、咲夜は甘やかし、 魔理沙は叱られ、咲夜は叱った。 そのたび魔理沙は咲夜から頬を叩かれた。理由は明白だった。 魔理沙だからである。大事な、愛おしい、咲夜だけの。 それが、双方にとって落ち着ける関係だった。 二人は共にそれ以上ないものを手に入れたのだった。 fin