………うらぎりもの……… うーん……… ヒソヒソと誰かが喋っているのが聞こえる。      ………ウラギリもの……… んんー…… ヒソヒソ、ヒソヒソと、私は、耳を塞ぎたくてたまらない。      ………ウラギリモノ……… 私は、戦場にいた。 見渡せば、不気味に赤く焼けた空。 耳をつんざき、辺りに響く、銃声と、轟音と、悲鳴。 頭のなかには興奮剤が撒き散らされる。 その興奮剤は、無理やりにでも私の身体を興奮させるのか、手足がピリピリと痺れる。 心にあるのは、恐怖感を無理やり押し黙らせる高揚感。 敵を一人、また一人と倒すごとにその得体の知れない興奮は私の心を飲み込んでいく。 私は雄たけびを上げた。 掘り返された土のにおいと、煙、硝煙のにおいが鼻を突く。 敵が援軍とともに大砲を持って現れるのが遠くの丘で見えた。 私は指揮を出し、仲間の小隊に後退よう命令するが、 声は非力にも、あたりに響き渡り山にこだまする爆音にかき消される。 まさにすぐそこで閃光と共に四肢をばらばらにされ吹き飛ぶ仲間たち。 供に厳しい訓練を耐え、今朝挨拶を交わした同僚の生温かい血しぶきと肉片が、私の顔にかかる。 戦況は不利だった。 いつしか半分まで、いやもっと数の減った仲間の軍隊。 見渡せば、いつのまにか周りにいるのは全てが敵軍だった。 倒しても倒しても、敵は増援を増すばかり。 興奮状態だった心はだんだんと熱を失い、 同じ大きさの恐怖が、じわじわと姿を見せ始める。 絶望的だった。 「!!」 仲間が一人、私の目の前で敵の海に飲み込まれていく。 彼女は私の名前を叫び、 私は彼女の名前を叫ぶ。 私の、一番の親友だった。 「た、すけて!!」 彼女の眼は必死で私に助けを求めていた。 助けて、まだ死にたくない!殺されたくない!! 痛々しいほどにそう叫ぶ。 流れの速い川に流された子供が何かにすがりつことするように、 私に向かって必死に手を伸ばす。 手を伸ばせば、届く……。 イヤだ イヤだ、私も一緒に死にたくない……! 私は、悪くない………!! 私は親友の手を払いのける。 「えっ……」 親友は、一瞬分からない表情を見せると、 次の瞬間あっというまに絶望が彼女の顔を押しつぶした。 私はそれを見るなり、踵を返して一目散に走った。 もうさっきまでの覇気は完全に消沈し、私の心も頭も、どちらも恐怖で埋め尽くされていた。 「そんな!やだ!!置いてかないで!!!」 親友は声が裏返るまでに必死で叫ぶ。 私は、聞こえないふりをして逃げた。 全速力で逃げた。 カナヅチが溺れるように無様に、仲間の死体を踏んずけて走った。 遠くで、布を裂いたような断末魔が聞こえた。 私は振り返らなかった。         うらぎりもの ガバッ!!!! 夢…… 夢だった。 「ハァ、……ハァ、……!」 まるで全速力の後のように私の息は上がり、心臓はバクバク肋骨を打ちつけ、 硫酸のような血を全身に送り出していた。 夢、今のは夢…。 自分を安心させる。 呼吸を落ち着かせると、枕もとのコップに水を注ぎ飲んだ。 ごくごく。 「ふぅ…………。」 ぬるい液体が、私のひりついた喉の渇きを押し流した。 一息つくと、私の呼吸は徐々にいつもの速度に戻っていった。 時計を見ると、円盤の上をゆっくりと歩く長針と短針は、今が午前三時であることを示していた。 コチコチと、単調な音が部屋に響くのがだんだんと聞こえてくる。 外は鈴虫が鳴き始め、夜は少し肌寒さを感じさせるほど涼しかったが、 気付けば背中と額は、気持ちの悪い汗でぐっしょりと濡れていた。 また、この夢。 今はまだはっきりと覚えている。 かつての親友の、生々しいほどリアルな死に顔。 絶望と恐怖を混ぜて塗りたくったような表情。 喉を張り裂かんばかりの絶叫。 必死で伸ばした手。 気付けば私の腕はカタカタと震えていた。 眼には、涙がにじんでいた。 б 「おはよう、ウドンゲ。」 「おはようございます、師匠。」 昨日あの夢の後、なかなか寝付くことができなかった。 このまま朝まで起きていようかと思っていたが、 私はまたいつの間にか眠りに落ちていたようで、耳元でけたたましく暴れる目覚ましは、 いつもどおりの時間に私を起こした。 頭が重い。 師匠に挨拶をすると、私は顔を洗いに洗面所へと向かった。 外はもう随分と空が高くなり、洗面所に通じる、庭に面した廊下を歩くには 薄手の寝巻きでは少々涼しかった。 木目の床が、ひんやりとする。 ばしゃばしゃ 冷たい水で顔を洗う。 私はこの瞬間が好きだ。 なんて言うか、ありきたりな表現だが、心が研ぎ澄まされる気がする。 寒いのが嫌いな友達の因幡てゐは、寒くなるといつもお湯で顔を洗っていたが、 私は真冬でも冷水で顔を洗った。 お湯で顔を洗ってみたこともあったが、なんだか朝から気が抜けた気がして、 その日は一日中ぼんやりとしてしていた。 キュッ。 蛇口をひねり、水を止め、タオルで顔を拭く。 冷えた皮膚がタオルにこすれ、ぴりぴりとした。 鏡を見ると、眼が少し赤く充血していた。 ウサギの目が赤いのは当たり前なのだが、昨日よく眠れなかったせいだろう。 鏡の前できょろきょろと眼を動かし、 かっこ悪いなぁ。と思いながら、朝食を食べに洗面所を後にした。 б 「ウドンゲ、今日もまたお願いね。」 「はい、師匠。」 師匠に手渡された袋を手に、私は靴を履き永遠亭を出て人里に向かう。 私の日課は薬を必要としている人間の家に、師匠の処方した薬を届けることだった。 私の師匠である八意永琳は薬師として医者として、人間の間でも少々名が通る存在だった。 風邪薬から奇病難病の薬まで、師匠は助けを求められれば気前よく丁寧に人間に処方した。 調子が悪いとわざわざ永遠亭に尋ねてくる者もあったが、 なにぶん永遠亭と人里は長い竹やぶをはさみ、結構距離がある。 私の仕事はいわば薬の飛脚のようなものだった。 さくさくと、私は地面に落ちた笹の葉の上を歩いていく。 朝夕は寒いといっても、昼先はまだ夏の暑さを少しだけ感じさせた。 ざぁぁ、と風が竹やぶの中を通り抜け、笹の葉を揺らす。 心が落ち着く、私の好きな音だ。 「こんにちは。」 そういって人里にある一軒の平屋の戸をからからと開ける。 「ああ、うどんげ先生、いつもすまないね。まっとったよ。」 そう言って私は奥に案内される。 かびたようなにおいがふっと鼻をかすめる。 あまり裕福な家ではないのだ。薬代も払えないという。 しかし師匠はお金のことはいいといからと言って毎日私に薬を持って行くよう手渡した。 生活のために薬を売るというよりは、師匠にとっては趣味に近かったのかもしれない。 「こんにちは、せんせい。」 奥には布団に横たわった幼い女の子がいる。 この家の一人娘だった。 生まれつき病弱なのか生まれてからあまり外に出たことが無いようだ。 よくごほごほと咳き込んだ。 この家にはこの女の子と、その父親が二人で暮らしている。 母親はこの女の子が生まれてすぐに死んでしまったのだ。 「今日の分です。一日二回、忘れず飲んでください。」 私は父親に薬の入った袋を手渡すと、立ち上がる。 もっとゆっくりいらしていればいいのにと言う父親の言葉に 私は、いえ…、とだけ答えると、平屋を出た。 玄関外までついてきた父親に、 師匠の診断では順調によくなっているようです。 このままお薬を飲み続ければ、後ひと月ほどで外に出られるようですよ。 と言って安心させると、 また私は竹やぶの中へと戻っていった。 さくさく 私はまた竹やぶの道を歩いている。 無愛想な奴だと思われただろう。 どうでもいい。 人間から好かれようが嫌われようが、別にどうだっていい。 別に人間が嫌いというわけではなかった。 だが好きかと聞かれればそうではない。 地上の民。 地球人を蔑んだ言い方だが、実際地球に下りてきてみて、 地球の方が月よりはるかに大きかったし、地球の方がはるかに過ごしやすかった。 師匠も姫も、地球を好んでいるらしく、また月に戻りたいとは聞かなかった。 穢れた地上の民。 地球人を見下しているわけではない。だが、自分の心の奥底には、そんな思いがあるかもしれない。 きっと、私だけでなく、月の民の心の奥底にはそんな思いが眠っているのだ。 「おかえり、鈴仙。」 永遠亭に着くと、友達の因幡てゐが私を迎えにきてくれていた。 てゐは私と違って、ずっと古くから地球に住んでいるウサギである。 子供のように幼い井出達だが、永遠亭に姫が飼っている沢山のイナバたちのリーダーだ。 てゐは仲間思いの良くできたリーダーで、何十匹といるイナバたちの顔をひとりひとりしっかりと覚えていた。 イナバもてゐのことをよく慕っており、しょっちゅうてゐの周りには小さいイナバがひっついていた。 「ただいま、てゐ。」 羨ましくないと言えば、嘘だった。 みんなと仲良しのてゐの事だ。 私もイナバたちと一緒に遊びたいときもあったが、私は姫のイナバであると同時に、師匠の弟子なのだ。 遊んでばかりいるわけにはいかなかった。 それに、もちろん何匹かは私のことを慕ってくれているイナバもいたが、 地球のウサギたちは、少し私によそよそしかったように思う。 てゐは思い過ごしだと言った、たぶんそうだろう。 自分で気付いていた。 私が避けているのだ。 もう、仲間なんて望まない。 それが、裏切り者の私が自分に課した、罰だ。 б 「眠れないの?」 「はい、……いやな夢を……見るんです。」 そう、とだけ師匠は言うと、戸棚から安眠の薬を持ってくる。 何の夢かは聞かない。だいたい予想が付いたので、わざわざ言わすことも無いという師匠の配慮だろう。 あれから数日経った今朝、またあの夢を見た。 内容が変わることは無い、今までに何度もうなされたあの悪夢。 すみからすみまで覚えている。 忘れようとしたってたぶん一生忘れられない。 それを考えると朝から気分が悪かった。 寝不足を隠していたが、どうやら顔色が悪かったのが師匠にはお見通しだったようで、 今私はこうして師匠の問診を受け、最近良く眠れないことを白状したのだ。 師匠は疲れているだけならば問題ないだろうと、軽めの睡眠薬の入ったビンを手渡してくれた。 「はい、これよ。毒は入ってないけど、でも飲みすぎには気をつけること。」 「ありがとうございます。」 師匠からはちょくちょく薬を貰っていた。 風邪薬から胃薬、絆創膏から虫さされの薬まで、私の部屋には一通り何でも置いてあった。 調子の悪いイナバも見てやる、ちょっとした医務室だ。 師匠の薬は本当によく効くのだ。 ずっと前にてゐと竹やぶで遊んでいて、転んでしまって脚を擦り剥いてしまったときがあった。 けっこう酷い傷だったが、師匠にもらった薬を塗れば、一晩で皮膚は元通り直っていた。 私もいつか、師匠のようなすごい薬師になれたらと思っていた。 б 「鈴仙まだ寝てるの?もう朝だよー。」 う……ん… 「おーい。」 あ、 私はむくりと起き上がる。 「おはよう。」 てゐの顔が眼の前に飛び込んでくる。 あれ、もしかして……。 しまった……寝坊した……。 目覚ましは鳴らなかったのかと思うと、てゐがあまりにうるさかったから止めたと言った。 「まずい。あ、てゐ、起こしてくれてありがとね!」 私は急いで布団を片付け、洗面所へ行こうとしたところで、師匠にばったり会ってしまった。 しまった、師匠には寝坊したことを悟られたくなかったのだが…… 「あら、今起きたのかしら、ねぼすけさん。」 師匠はどうやら薬が効いたようねとふふっと私を見て微笑む。 そうだ、あの薬、ぐっすり眠れない日が続いていたので三粒も飲んでしまったのだ。 おかげでよく眠れたが、寝すぎたのかその日は身体がだるくて、一日中あくびばっかりしては師匠に注意された。 б 二週間ほどたった。 悪夢を見ることは無くなり、よく眠れる日が続いた。 廊下を歩いていたてゐにおはようを言うと、いつものように私は顔を洗いに行った。 だいぶ風が涼しくなった、ある秋の日のことである。 「おはよう、ウドンゲ。起きてるかしら。」 私はいつもどおり目覚め、布団を押入れにしまっているところだった。 起きたばっかりなので、布団を持ち上げるとふらふらする。 「はい師匠、おはようございます。何か御用でしょうか?」 聞くところによると、朝師匠は用事があって出かけなくてはならず、 人里にいつもの薬を用意して届けて欲しいとの事だった。 そのくらいならお安い御用だ。 頼むわね、と微笑むと、私は返事をし、朝ごはんを食べに食卓へと向かった。 …ねぇ…… ―――。 ねぇ……… ん―――。 「ねぇちょっと鈴仙、あたしの言うこと聞こえてる?」 「え?」 「おいしいかって聞いてるの。」 てゐはため息をつくと、そっぽを向いてそう言った。 見ればてゐが、やっと気付いた、と私の方を向いてちょっとすねたような顔をしていた。 てゐの顔を見て一瞬たってから、朝ごはんの事を聞いていると気付いた。 私は朝ごはんを食べていた。食事を作るのは私とてゐの仕事で、 今日はてゐが朝ごはんを作ったのだ。 いかんいかん、師匠に頼まれたことをあれやこれやと考え、どうやらぼーっとしていたようだ。 てゐはどちらかといえば子供っぽいものが好きなようで、 夕食や昼食にはいつも自分の好きなものを作っては皆に食べさせていた。 栄養が偏るわよ、と師匠は言っていたが、健康には気を遣っているとてゐは返した。 今日の朝食のメニューは目玉焼きと、ベーコンと、レタスとあとにんじんのジュースだ。 私はてゐの作るにんじんジュースが好きだった。 てゐに、おいしいよ、と言うと、 てゐは、そ。とだけ満足げに言い、 いやに嬉しそうにまた自分の作った目玉焼きをついばむ作業に戻っていた。 朝食を食べ終え、歯を磨きに洗面所へ向かったところ、 今朝自分が朝起きて顔を洗っていなかったことに気がついた。 鏡の中の私は、寝癖が一本ぴんとはねさしていた。まったく誰か教えてくれてもいいのに と今朝のてゐがたまに私を見てニヤニヤ笑っていたのを思い出した。 あいつめ、師匠がいなかったからいいものの……まさか私がこのまま出かけることを期待して黙ってたんじゃ…… てゐのやつ、危ない危ないと私はあわてて寝癖を治すと、薬をまとめ人里に向かった。 気付けば外はだいぶ肌寒くなっていた。 今朝庭先の草木に霜が付いているのを見た。 寒いのは苦手だ。 私は今日もさくさくと笹の葉の絨毯を踏みしめながら、竹やぶを歩いた。 ザァァっと、秋風が笹の葉を揺らした。 「こんにちは。」 「ああ、うどんげ先生、いらっしゃい。すまんがちょっとの間、娘のことたのみますね。」 いつもの父親が言うには、自分はこれから用事があるのだという。 畑でも見に行くのだろう。いつものことだったので、私は、はい、と言って父親を見送った。 「こんにちは、せんせい。」 もう随分顔色が良くなったように思える。 私だって一応は師匠の弟子なのだ、顔色が悪いかどうかくらいは、私にだって分かる。 昔と比べて女の子も明るくなり、口下手だったが良く喋るようになっていた。 大きくなったら私もお医者さんになると言っていた。永琳先生のような立派なお医者さんになるのだと。 フフ、そう、頑張ってね。とだけ私は言うと、ここに来た用事をとっとと済ませるべく、 持ってきた袋の中から、一回分の飲み薬を出し、コップに水を注いだ。 「こなぐすり?苦くてきらい。」 女の子は渋った。 正直私も粉薬は好きではない。子供ではないので我慢できないというわけではないが、 初めて飲んだときは上手く飲み込めず、口の中全体に苦ったらしい粉が張り付いて最悪だった。 苦しむ私を見て師匠は、修行のうちよ、と可笑しそうに笑っていた。 脅す気は無かったが渋る女の子に、病気が治らなくてもいいの?と言ってやると、 すんなりと我慢しながら飲んでくれた。 そうそう、人間もウサギも素直が一番だ。 また横になったに戻った女の子に布団をかけてやる。 お父さんが帰ってくるまでここにいて欲しいというので、私は傍で女の子が寝付くまで髪を撫でてあげた。 可愛らしい寝顔だった。純粋無垢な女の子の寝顔は、親でない私が言うのもどうかと思うが、天使のようだった。 まったく、てゐもこれくらいおとなしいと可愛いのだが。 そう思ったときだった。 「ごほっ、ゴホッ!!がはっ!」 「え…?」 何が起こったのかわからなかった。 突然今まですやすやと寝息を立てていた女の子が、急に咳き込み苦しみだしたのだ。 「ど、どうしたの!」 「うぐ、く、苦し……いっ!!!!」 女の子は、片方の手で血が出るほど自分の胸を掻きむしり、 もう片方の手で、彼女の肩にかけた私の手を爪を立てて握り締める。 痛々しくゆがんだ女の子の顔は、眼を見開き、口から泡を吹いていた。 何が起こったかわからない私は、女の子が苦しみ悶える姿を、ただ見ることしか出来ない。 そして女の子は苦悶の表情のまま、絶命した。 ガシャン! そんな、 思わず後ずさりした私のかかとは、水の入ったコップをかかとで蹴って倒してしまう。 そんな、私は何も……、ただ、いつもと同じ薬を彼女に……。 おなじ薬……?? 私はそこまで思いかけ、頭の中に何か違和感を感じた。 その違和感の正体が何であるか分かると、血の気がざーっと音を立てて引いていくのを感じた。 私が持ってきて、女の子がいつも飲んでいるのは、粉薬ではなく、錠剤のはずだったのだ。 薬を、……間違えた………!? その時、外で人の声がした。 まずい! 私はそう思う間もなく、裏の戸を開け、 女の子を置いて、 逃げ出した。 б ハァ……!ハァ……!! 私は竹やぶの中を走っている。 とっくに息は上がりきり、肺は上手く酸素を吸えなくなるほど疲れていたが、私は立ち止まらなかった。 竹の葉が、私を追い立てるように、ざあざあとうごめいた。 永遠亭に付くと、誰にも見つからないようにトイレの中に閉じこもり、内側から鍵をかけた。 ハァ………これで、ハァ………、ひとまず……。 鍵をかけたことで私の心臓は安心したのか呼吸はだんだんと落ち着きを取り戻した。 どれくらいたっただろうか。 呼吸が落ち着いたことで、頭には物を考える余裕が出てくる。 間髪入れる間もなく、私の記憶は先ほど自分が何をしたかを思い起こさせる。 先ほどとは違った感じで心臓がまたバクバクと激しく胸を打ちつける。 腕には、あの女の子の爪あとがありありと残っていた。         ………はなさないよ……… 「うぷっ」 私はいやな物が身体の中を逆流するのを感じ、便器のなかに、胃の中のものを吐き出す。 ハァ、……ハァ、……ハァ!……ハァ!!         ………うらぎりもの……… 「うぐ」 ばしゃばしゃ…… 不快い極まりない嘔吐感は、二度三度と私を襲う。           ………はなさないよ……… いや、いや……! 頭の中に、声が響く。 腕には、力いっぱい握られた手の感覚が、おぞましいほどに残っている。 私は両耳を力いっぱい両手で塞ぐ。     ………ねぇ、ひとりで逃げないで、私も連れて行ってよ……… やめて、いやだ……! 「ウドンゲ。」 ビクッ!!! ドアの向こうで、私を呼ぶ声がした。 師匠の声だ。 「出ていらっしゃい、ウドンゲ。」 師匠の、声が聞こえる……。 師匠が、呼んでる……。 がちゃがちゃとトイレのノブを揺らす。 今度は、逃げられない……。 私はガチャリと鍵を開けると、観念したように外に出た。 「来なさい。」 師匠は怒っている。ばれたんだ。 師匠は私の腕をつかむと、乱暴に引っ張って、私の部屋まで連れて行く。 部屋の中に入れられるなり、私は師匠の平手打ちを食らった。 私は猫に追い込まれたねずみになったように怯えた。 震えるしかなかった。 「あなた、自分がなにやったか、分かってるの?」 ハッ、………はぁっ!……… 何か言おうにも、身体が震えて声が出せない。 ……逃げられない……!! 壁が天井がぐるぐると歪み、座ったいるのに、私は畳に倒れこむ。 畳に顔を押し付けて初めて、自分の眼が廻っていることに気が付く。 「ちょっと、ウドンゲ、あなたどうした……まさか!」 「あなた、全部飲んだのね!?ちょっと………ウドンゲ……… 師匠が、空っぽになった薬のビンを持って何か言っているのが聞こえた。 私の意識は、そこで途切れた。 б ふっと、薬のにおいがした。 気が付くと、私は師匠の部屋にいた。鉛のように頭が重い。 「気付いたのね、ウドンゲ。」 私は黙って身体を起こし、師匠の方を向いて座りなおす。 しまった、起きなければよかったかな……、そんなことを考えながら私は俯く。 私は師匠の顔を、見ることが出来なかった。 きっとすごく怒っているに違いない。指先が震えていた。 「あなたのしたことは、許されることじゃないわ。」 部屋の中に、師匠の声が、静かに、重くいきわたる。 心臓までもがトクトクと緊張しているのが分かる。 「あなたはあの娘の命を奪うばかりか、永遠亭の名までも汚そうとしたのよ。」 「今ならまだ間に合うわ、今から人里に下りて、事情を話してきなさい。」 事情……? 「そう、あの娘が死んだのはうちの薬のせいじゃない。あの娘はあなたが診ている間に容態が急変したの。」 え………? 「原因は、そうね。あの家のカビということにしておきなさい。空気中の菌が長い間かけて  あの娘の身体の中につもり、今日あの娘の身体がついに耐えられなくなって、死んだ。」 し……師匠……? 師匠は淡々とそう言った。何の表情も変えず。 目の前にいる師匠は、私の知っている今までの師匠とは、どこか違って見えた。 無償でお金の無い人間に薬の面倒を見てあげるような、優しい師匠ではなかった。 まるで生き物など、人間など、所詮は自分のおもちゃに過ぎないと言っているような、そんな感じだった。 初めて、師匠を怖いと思った。 б さくさく 笹の葉の道を歩く。 いまほど笹の葉の上をいつまでも歩いていたいと思っていたことはない。 このままどこまでも竹やぶが続き、永遠に人里に着かなければいい。億劫だった。 私の隣には、一匹のイナバがついてきた。一人では心細いでしょうと着いて来てくれたのだ。 本当の目的は、私が逃げ出さないようにとの監視かもしれないが。 このイナバはいつも私を慕ってくれていた。 誰にでも人懐っこく、可愛らしいイナバだった。 このイナバは私の事情を知っているのだろうか。 さっきから二人とも何も言葉を交わさず、私は彼女に眼もあわさなかった。 彼女にとってしてみれば、気まずいことこの上ない雰囲気だったろうが、 私にとってはこっちの方が楽だった。 人里に着いた。 私は、今朝行った平屋の戸をトントンと叩き、戸を開こうと手を伸ばした瞬間、 ものすごい勢いで戸が開いた。 女の子の父親だった。 眼は涙であふれていた。 「……、人殺し!!」 ビクッ! 嗚咽を押し殺し父親は叫ぶ。 私は驚いて二、三歩後ずさった。 父親は人殺し、人殺しと私を睨み、泣き、わめく。 ドクン―― いや いや、いや……… 叫び声に気付き、辺りの家の戸が開き、人が集まってくる。 手には、鈍く光る鎌や、斧、包丁。 いやだ、コロ……コロサれる……!!! 「え……ひ、人殺しって……え?」 イナバは状況が飲み込めていないようで、おろおろと私と人間たちを代わる代わる見ながら突っ立っている。 私は無意識のうちに後ずさる。心臓がバクバクと脈打つ。 腿の裏がぴくぴくと痙攣し、身体中が私に逃げろ、逃げろと命令を出す。 その時だった。 人間の一人が一緒に連れてきたイナバに襲い掛かる。 「いやだ!、助けて!!」 恐怖に押しつぶされたイナバの顔。 私に向かって伸ばされた手。 あの光景が、私の脳裏に浮かび上がる。 私は一瞬躊躇し、イナバに向かって手を伸ばすが、私の手の甲を、振り回された錆びた鎌がかすめた。 ヒッ! 鋭い痛みを感じる手の甲から、とくとくと血が零れる。 いや、いや いやだ、いやだ、いやだ………!!!! いやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!! 私は一目散に走った。 イナバを置いて走った。 捕まったら殺される!! あの子なら、あの子なら捕まっても殺されやしないだろう……! あの子が、あの子が捕まったのは、……あたしのせいじゃないっ……!! そう何度も何度も自分に言い聞かせ、 私は竹やぶの中を駆け抜けた。 「あっ!!」 ずしゃっ!! 私はつまづいて転んだ。 脚をくじいてしまった、立ち上がることが出来ない。 囁くようなヒソヒソ声が、頭の中にこだまする。          ………ウラギリモノ……… 声はだんだんと大きくなり、私を飲み込んでいく。        ………うらぎりもの………    …………また自分だけ生き残るんだ…………        ………ウラギリもの……… いやだ、いやだ、いやだ、いやだ……!!!! もうやめて……!!!私は、………私は何もしてない………!!!!!! 「ウドンゲ!!」 遠くで、師匠の声がした。 ウドンゲ!!どうしたの!!!ウドンゲ!! 私は朦朧としたまま師匠に担がれ、永遠亭へと向かった。 б 「ひどいよ!鈴仙!!」 てゐは眼に涙をためて怒っていた。 当たり前だろう。あの後傷だらけにされたイナバが竹やぶの中で倒れていたのをてゐが見付けたのだ。 てゐが涙を流すたび、てゐが私に声を荒げ叫ぶたび、 私の心臓は針のような細い糸できゅうきゅうと締め上げられる感じがした。 師匠は、私と口も聞いてくれなかった。 イナバたちはみな、私のことを冷たい眼で見るようになった。      ………うらぎりもの……… また、あの声が聞こえてくる。      ………ウラギリもの……… 夜眠るのが怖い。 また怖い夢を見たくない。師匠から貰った薬は、もう全部飲んでしまった。 昔、あの夢を見続けたときがあった。 うっかり師匠の茶碗を割ってしまった時だ。 師匠に謝りに行こうかと迷っていると、師匠は私に、 てゐはどこへ行ったか知らないかと聞いてきた。 つい、魔が差してしまった。 そうだ、てゐのせいにしてしまおう。てゐはイタズラばっかりやっているんだ。 怒られ慣れているから、大丈夫だろう。 それから毎日、私は、ばれた時の恐怖と不安に、じわじわとさいなまれ続けた。 てゐのたんこぶを診てやる度に、心がぎゅうぎゅうと締め付けられた。 てゐの傷が完全に治っても、てゐと師匠が仲直りしたのを見ても、 私の心は、いつかばれる日が来るのではないかと、ビクビクしていた。 夜は、あの夢を見た。 夜眠るのが怖くてたまらなかった。 ばれるかもしれない不安感と、夢から逃げられない恐怖感と、重度の寝不足により、私の心はぼろぼろになった。 夜空を見上げれば、月が、私を見て不気味に嗤っていた。 б 次の日、あのイナバが消えた。 私と仲の良かったイナバだ。 てゐは心配で心配で泣きそうな顔をしていた。 私たちは一日中あの子を探した。 てゐはイナバ達をつれて永遠亭の中を探し回り、 私は永遠亭の屋根の上や縁の下、竹やぶの中も裏の山の林の中も隈なく、日が暮れるまで探し続けた。 ただ台所のゴミ箱で、動物の骨を見つけただけで、 結局、あの子を見つけることは出来なかった。 私は強い罪の意識を感じた。 私せいだ、私のせいで……あの子は居場所を失ったのだ……。 でも、誰にも言う気にはなれなかった。 そうだ、お前のせいだ。と言われるのが、怖かったから。 私は、自分が傷つくのが怖くて、また逃げ出したのだ。 б ジリリリリリリ! 耳元で目覚まし時計がけたたましい音を上げて暴れる。 私はいつも通り手を頭の上に伸ばすと、手探りで目覚ましを止めた。 「んーー。」 大きく伸びをすると、せっせと布団をたたみ、押入れに入れる。 昨日は師匠の薬のおかげかぐっすり眠ることが出来たようだ。 ビンを見ると中身はあと半分ほどになっていた。まだ当分は持つかな。 私は顔を洗いに洗面所へと向かう。 「あ、おはよう鈴仙。昨日はよく眠れた?」 「うん、おはよう、てゐ…………」 ゾクッ 「ふふ、また朝寝坊しないでよ。」          ………うらぎりもの……… え……なに……? 「どうしたの鈴仙。顔が真っ青だよ。」       ………鈴仙は仲間を裏切ったんだね、許さないよ……… ……やめて……いや、…… 「ねぇ、鈴仙。」 猛烈な吐き気に襲われる。 「うぐっ、うげ……」 「ふふ、やだ鈴仙、昨日の夜あれだけもどしちゃったのに、まだ吐いちゃうの?」 ドクン…… てゐが、私に近づく。 「い、いや……!」 「ねぇ鈴仙、永琳のところへ行こう?永琳に診てもらおうよ。」 てゐが、私の腕をつかむ。 「い、いや、いやぁぁ!!!」 「ねぇ、レイセン。」 「いや!!いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」     б 私の記憶の中には、かすかに昨日の事が残っていた。      ………うらぎりもの……… またこの声……… 誰のヒソヒソ話が聞こえる。      ………ウラギリもの……… この声、誰の…… この声…… ガバッ!!! 「………おはよう、鈴仙。」 暗がりの中、私の枕元にいたのは、因幡てゐだった。 因幡てゐが、色の無い瞳で、私をじっと見ていた。 「て、てゐ……!?……あなたどうして、私の部屋に…。」 「うらぎりもの。」 「……え?」 「鈴仙は仲間を裏切ったんだね、許さないよ。」 「ゆ、許さないって…………や、やっぱり怒ってるの?あのイナバのこと……。」 「あの?ああ、鈴仙に懐いてたあの子だね。」 「………………。」 「あの子は鈴仙と仲良くしたから、あの子も裏切り者なんだよ。」 「え……?」 「美味しかったでしょ?今日の夕ご飯。」 「……………………うぐっ!」 「あーあ、だめだよ鈴仙、こんなとこで吐いちゃったら。」 「……ハァ!……ハァ!」 「永琳からまたあのお薬もらってきてあげたよ。」 「え……」 「これを飲めば、いつも通り明日の朝にはみんなきれいに忘れられるから。」 「いや……やめ、」 「ほら、我慢して。」 「うぐ、う!げほげほ……………………」 「だんだん効き目が薄くなってきてるみたいだね。明日からお薬ふやそうね。」 「…………………………」 「ふふ、おやすみ鈴仙。明日も来るからね。」 もう、逃げ場なんて、無い。 薄れる記憶の中で、私が考えられたのは、それだけだった。      Fin