四月三十日、午後十一時五十分。  部屋を照らすのはロウソクの灯りと窓から差し込む満月の光だけ。  十代の男の部屋には明らかに異質なお香のかすかに甘い香りが充満する中で、俺はもし他人が見たならば即座に黄色い救急車を呼ぶであろう事を行っていた。 :としあき 「――我は求め訴えたり」  古臭い、アニメや漫画でも散々出てきたような呪文を読み上げる。  部屋の中央と俺の足元には魔方陣が一つずつ。  何でも足元のは聖域だそうで、そして部屋の中央に置いてある方は呼び出した際に檻のように働くものらしい。  やたらと推量が多いのは儀式自体あまり信用できていないからだ。  頭も良くない、運動もダメ。顔だって人並み。  かといって努力する事もできなければ致命的に追い詰められているわけでもない。  でも、もしそんな俺の前に悪魔がでてきて願いを叶えてくれるなら、どうだろう?  頭を良くしたり、運動が出来るようにしたり、少女漫画みたいな美形になってみたりすれば、どうだろう?  きっと、皆俺の事をほっとかなくなるはずだ。  ――そう、憧れのあの子だって。 :としあき 「――我が呼びかけに応じ来たれ」  そんな都合のいい願望で頭を一杯にしながら、呪文を読み終えた。  しかし、何かが起こる様子はない。 :としあき 「……そりゃそうだよな」  手にしていた魔術書を閉じる。  潰れかけの古書店で見つけた時にはいかにもな雰囲気に興奮したが、まともに考えれば悪魔など出てくるはずが無い。  でも、期待はしていた。  もしも悪魔が出てきて願いを叶えてくれたら……  その気持ちを晴らすべく本を投げ捨てる。  本が落ちる音がして、そこに混じって陶器と床のぶつかる高い音がひびいた。 :としあき 「あー、くそっ!」  苛立ちを露にしながら倒れた香炉を拾い上げに行こうとして――  その時、風も無いのにロウソクの火が一斉に消えた。 :としあき 「……え?」  ただ消えただけじゃない。  何かが、いる。  姿は見えないが明らかに存在する。  魔方陣の中央から漂う、異様なまでの存在感。 :としあき 「まさか――」 :悪魔 「呼びかけに応じ、来たり」 :としあき 「え、あ……」  慌てて魔術書を拾い上げ、術者を護る魔方陣へと戻ると使役についてのページを開く。 :としあき 「我が名はとしあき、汝を呼び出したのは我なり。汝我が命に従いて……」  ページを読み直す暇もなく目で追いかけるに合わせて読み上げていき……  それを、空気そのものが震えているかのような声に制された。 :悪魔 「呼び出した技量は認めよう。我ら悪魔が地上へと呼び出されるなど、何百年ぶりの事か。貴様、あと千年程昔に生まれていたならば人の歴史に名を残したかもしれんな」 :としあき 「……何言ってんだ、いいから俺の命令に」 :悪魔 「しかし、時代も悪ければ技量も未熟……いや、頭が悪いのか」  そう言って、悪魔が動いた。  目には見えないが、重苦しい空気が確実に近づいてきているのがわかる。 :悪魔 「まず、術式の記述が不足しているな。我を閉じ込めておくには後一巡ほど言葉が足りん。恐らくは伝承のうちに失われたのだろうな」  悪魔の移動はやけにゆっくりとしていた。  その遅さが俺にプレッシャーをかける事を理解しているのだろう。  でもまだ大丈夫だ、守護の魔方陣がある。  これの上に立っている限りは悪魔は絶対に―― :悪魔 「次に頭が悪いと言ったのはだ。守護の陣をよく見てみろ」  悪魔が指をさした気がした。  そこをじっと見てみるが、何も間違いなど―― :悪魔 「天使の名、綴りを間違えておる。これだけ瑕疵だらけの中で我を呼び出せるというのは賞賛に値するがな」  初歩的でかつ致命的なミス。  それに気付いて叫びを上げようとした時――既に身体の自由は奪われていた。 :悪魔 「しかしつまらんな。娘ならば堕落させてやるものを……だがしかし、貴様の実力は中々のものだ。是非我が手中に収めたくはある」  勝手な事を口にしながら、悪魔が俺の頭へと入り込んでくる。  まるで脳に直接指を突っ込まれているような異常な気持ちの悪さ。  こみ上げる吐き気も、呼吸の自由すらも奪われているような状態では発散できず、ただ蓄積していくばかり。 :悪魔 「願いは……ふむ、意中の娘に釣り合うような人間になりたいと。実にくだらん願いだな」 :としあき 「うるせえ、いいからどっか行けよ!」  脳に直接響いてくる声に、頭の中で必死に叫ぶ。 :悪魔 「そう邪険に扱うな。折角呼び出されたのだ。その技量に敬意を表して貴様の願い、叶えてやろう」 :としあき 「……何だって?」 :悪魔 「だから、叶えてやろうというのだ。――ただし、我が貴様の身体を借りてだがな」 :としあき 「待て……どういう事だ!?」  問いただしながらも、俺は全て理解していた。  俺の身体を借りる、それはすなわち。 :悪魔 「察しの通り。暫くの間貴様の身体で生活してやろう。この数百年で地上がどう変わったか知りたいのでな」 :としあき 「何勝手な事言ってんだ! そんな事誰が――」 :悪魔 「貴様が止めると? その指一つ満足に動かせん身でか。……それに、そう嫌がる事もあるまい。我が力があれば娘の一人や二人、容易く手に入る――それが本来の貴様には手の届かぬ娘だろうとな」 :としあき 「……まさか」 :悪魔 「手土産代わりだ。娘と貴様をまぐわらせ、二人まとめて我が下僕にしてやる。貴様の記憶から察するに生娘のようだから、好都合だ」 :としあき 「待て……やめろよ、何だよそれ!」 :悪魔 「我を呼び出したのだ、失敗した時にはどんな目に遭うか……まさか考えてもいなかったという訳ではあるまい」 :としあき 「だからってあの子は……美樹ちゃんは関係ないだろ!?」 :悪魔 「関係? あるとも。貴様の願いがそれではないか。……精々そこから見ているがいい、娘が淫欲に堕ちるまでをな」  響き渡る悪魔の哄笑。  それが段々と遠ざかり、まるでここが地獄かのような気持ち悪さの中で俺の意識は沈んでいった。  ――それからどれくらい時間が経っただろう。  けたたましい目覚ましの音で俺は意識を取り戻した。 :としあき 「ん……あ、れ?」  ベッドの上で唸りつつ、鳴り響く目覚ましを止める。  いつもの起きる時間、いつもの朝の光景だった。  しかし、今日はそれに違和感を覚えた。 :としあき 「悪魔は……?」  そう、昨日俺は悪魔を呼び出したはず。  そして悪魔に身体を乗っ取られて……  それなのに。  身体を乗っ取られたはずなのに、今目覚ましを止めた。  試しにベッドから身を起こしてみる。  いつも通りに起き上がることができた。 としあき 「夢、だったのか?」  床を見てみる。  少なくとも召喚しようとしたのは夢じゃないらしい。  放り投げた本のせいで倒れた香炉もそのままになっていた。 としあき 「あー、もしかしてお香のせいで頭トンでとか?」  実はあのお香、法的にはギリギリ……むしろアウトなシロモノ。  召喚の際にトランス状態になるためにとネットでゲットしたもので、販売していたサイトもお香が届いて二日後には閉鎖していたぐらいにヤバかったりする。  きっとそれが原因だろう、という事にしてそこで原因究明を終らせ、学校へ行く支度をはじめた。 *場面転換、学校。 :としあき 「……昨日、何やったんだ俺」  ここまで、家から本校舎の二階までのたかだか10分ほどの距離がやけに辛かった。  意識の飛んでいたうちに暴れまわったりしていたのだろうか?  昨日の記憶があいまいなぐらいだ、ありえる話だ。 :としあき 「二人ともいなくて良かったな」  そう、両親は折角の銀婚式だからと有給まで使って昨日からGW明けまで旅行中。  もしも家に居た日には今日は学校じゃなく心の病院に行く事になっていたかもしれない。 :としあき 「……マジで良かった」  今更悪魔召喚なんてやっていた自分の頭の悪さにげんなりとしつつ、教室のドアを開けて、無言で席へと向う。  そして今日は疲れたから寝てしまおう……なんて思っていた矢先。 :美樹 「おはよう、としあき君」 :としあき 「あ、え、っと……ど、したの?」  突然美樹ちゃんに話しかけられた。  そんな事なんてほとんど無いせいで異常にテンパっておはようも返せない。 :美樹 「どうしたのって、あいさつするのが変かな?」 :としあき 「いや、そうじゃないけどさ……珍しくない?」 :美樹 「だってとしあき君、いつも遅刻ギリギリか、来たらすぐに寝てるんだもん」 :としあき 「そういえばそうだったっけ……」 :美樹 「そうだよ。ちゃんと起きてないとダメだよ?」  そう言われても、クラスに話す相手もいないし、テストだって適当に寝ていても赤点にはならないのだから寝てしまうのが人間というもの。  けど、美樹ちゃんが話しかけてくれるなら、これからは起きていよう。 :美樹 「それでね? ちょっととしあき君に用事があるんだけど」 :としあき 「え、お、俺に?」  何だろう……?  朝は寝ている、同じ部活や委員会でもない。  接点といえば図書室で顔をあわせるぐらいで―― :としあき 「あ、図書室?」 :美樹 「うん。ちょっと探してる本があるんだけど、としあき君図書室の当番今日でしょ? だからお願いしたくて」 :としあき 「奥だね、わかったよ」  奥とは、貸し出しカウンターの奥にある並べ切れなかった本を保管している部屋だ。  管理の問題から一般性との立ち入りは禁止されている……ものの、実は図書委員立会いで入室記録にサインをすれば誰でも入る事が出来るし、貸し出しも自由だったりする。  で、当番というだけあって俺は図書委員なのだ。  何かしたいけれど、大それたことはしたくない。  そんな俺に適任だった。 :美樹 「じゃあ、放課後……えっと、5時までには行くと思うからよろしくね」  話がまとまった所で丁度ベルが鳴り、美樹ちゃんは自分の席へ戻っていった。  そして俺は美樹ちゃんに注意されたばかりだというのに机へと突っ伏し、眠ることにした。 *暗転  やっぱり疲れていたのだろう。  いつもなら先生の注意で目を覚ますはずなのに、昼休みのベルが鳴った所でようやく目が覚めた。  しかし、身体は重く、起き上がれる気がしない。  まぶたも持ち上がらず、視界は未だ闇の中。 :としあき (いい加減起きないと……) :悪魔 (無駄だな。そろそろ交代の時間だ) :としあき (っ、お前……!?) :悪魔 (おはよう。どうにも朝は弱くてな、一眠りさせて貰っていた) :としあき (じゃあ、昨日の事は……) :悪魔 (当然、夢ではない。夢だと思いたい気持ちはわかるがな)  頭の中に響く声の感じ、胸にこみ上げる嘔吐感。  その最悪の感覚に昨夜の出来事は間違いなく本当なのだと、理解したくなかったが、理解した。 :としあき (それで……どうするつもりだよ) :悪魔 (昨日言った通りだ。願いは叶えてやる。ただし、我が行動させてもらうがな)  悪魔がそう言った途端、感覚が遠ざかる。  机の硬い感触も、クラスメイトが会話している声も、何もかもが離れていく。  いつの間にか鳴っていた昼休み終了を告げるベルも、どこか遠い。 :悪魔 (折角だ、意識は残しておいてやろう。憧れの娘を口説く自分を見るのも、中々愉快なものだぞ?)  そんな悪魔の声を最後に、まるで夢のような――何もかもが遠く、しかし全て見ている状態になった。